1998
ある街角で
彼は、今日も一日そこでそうして座っていた。急行の停まる地下鉄の駅から、サブシティの大通りを南へ少し下ったところにある噴水広場の脇、防災隔壁の途切れたところに、衝立と机と二脚の椅子。結局、プレコグニションほど役に立たない能力はないということだ。“占い”という古めかしい言葉を持ち出してみたところで、誰も自分の未来を知りたいなどと思うはずがない。
明日がどうなるかわからないから、人生は楽しいのだ。
彼はいつしか、街を行き交う人々を眺める楽しさを覚えていた。駅にトラムが着いたようだ。サブシティに人が溢れる。椅子に深く腰掛け、身体を折り曲げるようにして机に両肘をついて手を組む。人差し指と人差し指が交差するところで顎を支え、じっと前を見る。
やけに急ぎ足の男がいる。両腕を大きく振って、二回ほど右手に持った鞄が誰かに当たりそうになっている。歳の頃は三十代半ば、仕立てのいいスーツに身を包み、急いでいるわりには表情に現われない。
彼は、少し眉間に皺を寄せて男を凝視した。男は、単なる待ち合わせのようだ。相手は女性だが、どうやらあまり約束を守らない男らしい。この女性にそんなに気を入れてないからなのか、男の性格なのか。
どちらにせよ、これ以上の詮索は野暮というより、労力の無駄だ。彼は大きく深呼吸をした。
不意に、女性と目があった。すぐに視線は逸らされたが、眼差しは興味深げなものだった。彼は、下の方に視線を落として素知らぬふりをした。彼女はどうやら、占いに興味があるようだった。だが、近づくことなくゆっくりと人の流れに乗っていった。
彼は、彼女を見た。二十代半ば、いや二十一、二といったところか。四肢が尖ったようにほっそりしていて、赤い髪が肩の上で丸まって揺れている。顔だちは、頬から顎にかけてまだあどけなさが残り、目尻の少し下がった目許は、どことなく不安気で頼りない感じを受ける。
彼は、眉間に皺を寄せて彼女の後ろ姿を凝視した。だんだん背中が小さくなって、人込みに紛れるようになって彼は目を閉じた。
そこに暗闇しかないとわかったとき、彼は走りだしていた。
「何か?」
彼女は、彼が誰であるかはわかっていた。不審そうな態度をとるわけでもなく、肩で息をしている彼と向かい合った。
「・・・お、落ち着いて聞いてください。・・・近々、あなたの身に、大変なことが起こります。それが何かはわかりませんが、恐らく命にかかわるような・・・」
そこまで話して、彼は話すのをやめた。彼女は、うっすらと笑みを浮かべていたのだ。
「じ、冗談とでも思っているんですか?」
「いいえ」
「見料は結構ですから、もう少し見させてください。私で力になることがあれば・・・」
「ごめんなさい、急ぎますので」
彼女の口調は、あくまでも好意的だった。
「あ、あの・・・」
彼女は、二三歩進んで振り向いた。
「別にあなたの言うことを信じていないわけじゃありません。ただ、明日のことを今日知っても、それは意味がないと思うんです。明日のことは、明日しかすることができないんですから」
彼女の姿が消えて、彼は往来の真ん中に突っ立っている自分に気づいた。彼は、身を隠すように洗面所に駆け込んだ。
冷たい水で顔を洗って、鏡を見た。
「・・・明日は、明日の風が吹く、か・・・」
彼は、鏡の中の自分を凝視した。それが、自らの精神に障害を来たすことを承知で。
噴水広場の脇、防災隔壁が途切れたところにある衝立と机。座っている自分が、そこにいた。明日も、明後日も、次の日も、ずっと。
彼女は、いつものように駅に降り立った。ラインリフトに乗り、サブシティへ上がる。大通りを南へ下って、噴水広場の脇、防災隔壁の途切れたところにいつもあった占いの店が、なくなっていた。
彼女は少し残念そうに、家路へと急いだ。
(c) 1996-
crescent works All Rights Reserved.
