1998

終命審議官

「死にたいんですけど・・・」
 審議官がまだ書類から顔を上げないうちに、その男は言った。
 張りのある肌をした顔には、悲槍感のようなものは微塵もなかった。ただ、その声だけは大層嗄れて、呼吸の度に声帯から微かに高周波のノイズが漏れていた。
「どうぞ、お掛けください」
「よろしく、お願いします・・・」
 男は、右足を引きずっているようだった。たぶんメンテナンスなどとっくに放棄しているのだろう。三五九年生まれというと、もう全換体していてもおかしくない歳だが、資料によると彼の身体は、その壊れた右足以外ほとんどオリジナルだった。
「あのう、審議官さん、・・・いかがなものでしょうか・・・」
「そうですね」
 審議官は、愛想のないいつもの口調で回答を切り出した。
「法的な点に関しては、問題はないと思います。ご親族の同意も得られてますし、財産分与の問題も解決済でいらっしゃる」
 男は、小刻みに頷いた。
「これは、ここにおいでになるみなさんに必ず申し上げることですが、・・・本当によろしいですか?」
「はい。・・・そのために来たのです」
「私がここにサインすれば、あなたは五分後に死ぬことになります。本当にそれでいいんですね?」
「はい、お願いします」
 男に、迷いはないようだった。
「・・・私は、物理学者をやっていました。物理に限らず、学問というのは奥が深いもので、気がついたら私は二百年以上も生きていました。・・・しかし、それだけ生きていながら、私の人生は研究以外には何もありませんでした。恋愛も結婚もせず、子孫も残さず、私は、後世に何も残すことができずに・・・」
「そんなことありませんよ、ドクター」
 男は、目に涙を溢れさせながら審議官を見た。
「あなたの人生はあなたのものです。どう生きようとどう死のうと、それはあなたの自由なのです。何も残すことができなくても、過ごした日々が充実していれば、それでいいじゃないですか」
「審議官・・・」
「どうしますか。今ならまだ考え直せますよ。そのお身体なら、あと百年は大丈夫でしょう。それだけあれば、今より悔いのないような人生を送ることもできますが、どうします?」
 男は、目を閉じてしばらく考えてから、首を横に振った。
「そうですか、・・・わかりました。あなたの最後の意志を、尊重しましょう」
 審議官は、書類にサインしたあと、男の住所のところで視線を止めた。
「あれ・・・」
「どうか、しましたか?」
「この住所・・・」
「何か、間違いでも?」
「いやいや、・・・私、この近くに住んでいたことありますよ」
「本当ですか?」
「ええ、初等教育が終わるまでここにいたんですよ、いやあ、懐かしいなあ」
 審議官は、昔を思い出すかのように天を仰いだ。
「・・・あ、あの店まだありますか、あの、店先に大きな蟹がぶら下がっている・・・」
「ええ、ありますよ。一昨日そこで最後の晩餐を・・・」
「まだあるんですか!?、うわあ、まだあるんだ、へえ」
「あのう、私そろそろ終命室のほうへ・・・」
「あ、ち、ちょっと待ってください、もう少し話を聞かせてくださいよ」
「いや、しかし・・・」
「じ、じゃ、わかりました、再命審議官に連絡しておきますんで、一時間後に蘇生ということで。お昼ごちそうしますよ」
「は、はあ・・・」
 男は、小首を傾げながら、終命室へと入っていった。
「はい、次の方どうぞ」
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