1996
休暇中にて
ブルックリンからやってくる車の列が、ぐるぐると渦を巻くようにして南へ北へ消えていく。さながらロウアーマンハッタンを巡る血液のように。あるいは、滑りのいいオイルのようか。ライトグレイのロッカーがひしめき合って、いつもの月曜日が始まる。
話題と言えば、つまらない新番組と、メジャーリーグで大活躍している日本人ピッチャーのことと、結婚の噂が出ている同僚が一週間の休暇を取ったこと。
「へえ、リナが休み取るとはね」
「道理で静かなはずだ」
「彼氏の故郷に行くんだってさ」
「結婚するって噂、どうやら本当らしいな」
「それがさ、ビッグニュースがあるんだよ」
よもやま話に花が咲くのは、ニューヨーク市警でもどこでも同じことだ。
今、もし45口径で頭を撃ち抜かれても、きっと何も気づかないんだろうなと、リナ・エトフォードは思っていた。
心臓の脈動に合わせて、リナは狭いカウチでスクリュードライヴァーの様に身じろぎしている。
斜めに向けたベッドの上では、ぱっくりと口を開けたトランクから、ブラウスやセーターが吐き出されたように散らかっている。
先週、シンシアが買い出してきたドラフトビールは、潰れて倒れてテーブルの上。食べ散らかしたらしいレイズピッツァの空き箱が、V字に並んだ床板の上に転がっている。
鳴りだした電話に、リナは泳ぐように手を掻いた。
『おはよう、リナ。シンシアよ。夕方には帰るわ。と言っても、今ごろあなたは空港かしら、それとももう飛行機の中かしら。とにかく、三ヵ月ぶりの休暇なんだから、楽しく過ごしてきてね。ニールによろしく。じゃあね』
隣室のシンシア・ルーティには、留守中何かと世話になっていた。ハウスメイド紛いなことも、二人が幼なじみでなければ到底できないことだ。ウォール街で働いているにもかかわらず、わざわざこのトライベッカの古いアパートに住むなど、よほどこの街が気に入っているのだろう。
リナはというと、家賃の手頃さ、職場の近さを考慮しての結果だった。本当はもう二つ三つ事情が絡んでいたが、住み心地がよければ構わなくなってくるものだ。いずれにしても、刺激的な場所であることには間違いない。
睫毛の長い茶色の瞳が、片方だけ眩しそうにブランケットの隙間から覗いた。ずっと切りそびれて耳元を覆い始めた、瞳と同じ色をした髪を掻き上げて、リナは慎重にゆっくりと静かに身を起こした。
いっそマグナムで撃ち抜いて欲しいほど、頭が痛む。
「・・・ごめんね、シンシア。・・・全部空けちゃったわ・・・」
片目をきつく閉じて痛みをこらえたまま、リナはなんとか立ち上がった。
カーテンを通して、無骨な非常階段がうっすらとその影を部屋中に落としている。
オフホワイトのバスローブとインナーウェアだけで身震いをして、一度ベッドに置いたブランケットを肩から巻き付けるように羽織った。
ふらふらとリナはバスルームに向かった。警官にしては華奢な白い足が何度ももつれて、その度に支えを求める腕が、クローゼットの頼りない間仕切りに延びる。
壁に貼り着いた鏡の脇に手を突いて、リナは顔にもう片方の手をやった。
「・・・ほんと、最悪・・・」
濛濛と白い湯気を立てて迸るシャワーの、肌に突き刺すような痛みがようやくリナを目覚めさせて、最悪の休暇が始まった。
クローゼットに一歩足を踏み入れて、まだ服がみんな夏物なのに気づいて、リナはバスローブのまま片付け物をしなければならなかった。
とりあえず少し厚目のコットンシャツだけ出して、ジーンズに足を通す。急にたっぷりできた時間、せっかくだからゆっくり使おうと、クローゼットの片付け物はそこで終わった。
キッチンに向かったリナは、すぐに踵を返した。チェックブックをポケットに突っ込んで、まだ最悪の顔をキャップで隠して外に出た。
今日はいつもより風が強く、どこかしら埃っぽい。ワールド・トレード・センターも、通りの向こうで霞んでいる。
いつもと少し違う風景に、ペダルの足も軽い。やっと支払が終わったゲイリー・フィッシャーのMTBは、西ブロードウェイを横切ってハドソン通りを右に折れた。
「・・・おはよう、ロイ」
ロイ・ブラウニングは、カウンターで不思議そうな顔をこちらに向けて、グラスを拭く手を止めた。
「やあ、おはよう、リナ。こういう挨拶を交わすのはしばらくぶりだね」
給仕姿の腰の辺りに締まりがなくなってきたと冷やかしたのは、まだ夏の頃だ。真ん中で折れ曲がったつばの間から、リナはばつの悪そうな微笑みを返した。
『ブルームーン』は、間口が狭い分フロアがやけに広く見える。しかしそれは錯覚ではない。右手にはバーカウンター、奥へ行けばホールすら備えるレストランがある。まだレストラン部分は、椅子がテーブルの上にひっくり返っている。
「涼しいね、今日は」
「寒いくらいよ。オレンジジュースある?」
「ああ、あるよ。いつものやつも用意できるが」
「お願い」
リナは、疲れたようにだらしなく両腕をカウンターの上で組んで、その上に顎を乗せた。
「質問が一つあるんだがな・・・」
首を横に振ったリナに、ロイは撫で肩をすくめてみせた。彫りの深い目許の奥の細い目が、しょうがないと言っているようだ。
BLTのダブルデッカーが乗ったトレイをリナの前に置くと、ロイはカウンターを出て隣に腰掛けた。
「ま、いろいろあるさ」
先が丸く膨れた顎をさすりながら、ロイはオレンジジュースをグラスに注いだ。
「・・・ありがとう、ロイ」
ロイは二度三度頷くと、またカウンターに戻ってグラス拭きの続きを始めた。
リタイアしなければ、ロイは今ごろ課長くらいにはなっていただろう。彼の右足が義足なのは、もう今では知らない者のほうが多い。
「悪い休暇になったな」
リナが食べ終わるのを見計らって、ロイが声をかけた。
「最悪よ。どうしようもないわ」
パン屑のついた手を脇で払いながら、実に感情のこもった言い方でリナは吐き捨てた。
「ボビーのところにでも、顔出したらどうだ?」
「ボビー?」
「ボビーだよ、ボビー・ブラッグス。しばらく会ってないんだろ。先月来たけど、ヒマそうにしてたぞ」
トレイにこぼれたレタスの切れ端を玩びながら、リナは昔を思い出しているかのように宙を見つめた。
「元相棒じゃないか。愚痴でも聞いてもらえば、すっきりするさ」
「・・・そうね、そうするわ」
ようやく見せたリナの本当の笑顔に、ロイは差し出されたチェックを断った。
コンビを組まされたときの、あのボビーの嫌そうな顔、リナは今でも憶えている。並んで歩く見えない左半分の顔は、いつも疎ましそうに歪んていた。
彼にとってはリナが二人目、リナは捜査官になって初めてのパートナーがボビーだった。
射撃の腕や人一倍強い正義感には、リナも見習うところがあったが、醒めやすいのが何よりボビーの欠点だった。むしろボビーのほうが、リナに学ぶべきものがあったようだ。
警官を天職と考えるリナは、全てにおいて真剣だった。
捜査に関しては一切の妥協を許さず、男共に引けをとらないタフさと行動力で、市警にその名を轟かせるまでに至ったが、リナは真剣過ぎたのだった。
オトリ捜査を遂行中に、アンダーカヴァー二名を死亡させた責任を負わされ、リナとボビーは降格処分を受けた。
事前に情報漏れがあったとするのが、現場の一致した見解だったが、ボビーもリナもそれを証明することができずに処分に従った。ボビーはそのまま現職をリタイアしたが、リナは処分後も警官として職務を続けた。
捜査官がリタイアすれば、身の振り先は一つしかない。
《B.B.DETECTIVE OFFICE》と素っ気ない字体で、すりガラスの部分に白字で書かれたドアは、拳一つ分ほど開いていた。
「ボビー、入るわよ」
金メッキが鈍くくすんだ把手を握って押し開けると、スカイブルーの瞳がリナを睨みつけた。
「どちら様ですか?」
彼女はそう言い放つと、すぐに顔をデスクトップコンピュータのモニターに向けた。
リナが客ではないことは、先刻のセリフでわかっただろうが、事務的な冷たさというより、どこか嫉妬のようなものさえ感じるその言い方に、リナは少し尻込みした。
「あ、ごめんなさい、ブラッグスさん、お留守かしら?」
彼女は、すぐ返事をせずに、赤く細い眼鏡の縁を指で押し上げた。
「・・・ええ、すぐ戻ってきますけど、よろしければ、そちらでお待ちください」
そちらというのは、エントランスの隅にあるくたびれた長椅子のことだろうか。人を雇うほど忙しいとは聞いていないが、首を延ばしてオフィスを覗きこむと、遠い方の隅にあるボビーのデスクは留守だった。とりあえず、リナはそこに腰掛けた。
ちょうど斜め向かいの秘書らしき彼女は、リナのことなど存在すらなかったように作業を続けている。秘書らしいといったのは、タイピングする姿と服装があまりにもそぐわないからだ。
リナと変わらないくらいカジュアルな、薄いグリーンのロングスリーブシャツの袖を捲って、デスクからはみ出ているのはジーンズの足、間仕切りで見えないがその先がスニーカーだったらどうしようとリナは思った。
らしくないのは服装だけではない。ブロンドの艶やかな髪は肩先にかすかに触れ、丸みの保たれた頬から顎にかけては、まだ子供っぽさがあった。口許も目許も、申し訳程度にしかメイクされていない。これでそばかすでもあれば完璧なのだろう。
乱暴にドアが開いて、彼女の言うとおりボビーがすぐに戻ってきた。
「あれ、なんでこんなところにいるんだ?」
皺だらけのシャツに、よれたネクタイ、不精を遥かに越えた顔の下半分を覆う髭、灰色の髪を掻き上げながら、いつもと変わらないボビーがそこにいた。
「休暇取ったんじゃなかったのか?」
溢れてくる涙は、しがみついたボビーの肩先でしか止められなかった。
「おいおい・・・」
「・・・ごめんなさい。もう涙は出ないと思ったけど、顔見たらつい・・・」
ボビーは、薄い唇をきゅっと結んで頷くと、リナの両肩をぽんと叩いた。
「OK、今からリコの店に行くんだが、一緒に来るか?」
細く深い目許が小馬鹿にしたような微笑んで、ボビーはオフィスに入っていった。
「ミディ、報告書今日中に上げておいてくれよ」
人差し指を立てて念を押すように彼女に言うと、せわしい足取りでデスクに向かい、椅子の背に掛けてあったジャケットを着た。
「頼んだよ」
彼女は、ただ頭を傾げて返事した。あまり気乗りしてなさそうな感じがありありと見て取れた。
「彼女、学生?」
「週二百じゃあれが精一杯さ。俳優を目指してるんだそうだ。ちゃんと仕事はしてくれてるがね。戻ったら、改めて紹介するよ。・・・なんか、ややこしそうだから」
「俳優ね・・・、じゃ秘書役は向いてないわね」
「おっと、相変わらずきついねえ」
ボビーは、カプリス・ステーションワゴンのでかい図体をラファイエット通りに入れた。
「・・・ロイは、暇そうにしてた、って言ってたけど、そうでもないみたいね」
「そうなんだ、でかいヤマが入ってね。ここんとこ、あちこち飛び回ってるよ」
吹き込む風が寒いのか、ボビーは窓を閉めた。
「・・・で、悪いのはどっちなんだ。ニールか?、それとも君か?」
リナは、肩をすくめてただ溜息をついた。
「どっちもどっちよ。あたしも強情だし、ニールもそうだし。しばらく、お互いに離れてたほうがいいと思って」
「ふむ・・・、そんなもんかな」
「・・・そんなもんよ」
ボビーは、ステアリングを切り返すついでに、リナの横顔を盗み見た。
「・・・変わってないな。その気の強さも、相変わらずだ」
「そう?」
「しかし、・・・そろそろ引き時かも知れんぞ」
「どうして?」
思い出したように横道へ車を入れると、ボビーは舗道脇のパーキングに車を停めた。
「ねえ、どうして?」
「話はまた後だ」
ポケットのコインを探りながら、ボビーはドアを閉めた。
リトル・イタリーの、ブルーム通りとモット通りが交差する辺り、赤煉瓦造りのビルに挟まれて、リカルド・ペスカローロのガンショップがある。表にはショウウインドウも何もないので、看板を見ない限りはそれとはわからない。
格子に填められたガラスが響くドアを引き開けて、二人は店に入った。
比較的明るく照らされた店内には、右半分にショウケース一杯に並べられたハンドガン、壁にはライフルやショットガン。左半分はホルスターやグリップなどのアクセサリーと、各種口径のカートリッジが整然と棚に並んでいる。
「よう、リコ。239取りに来たぜ」
「やあ、これはブラッグスさん」
リカルドは、ショウケースに隠れるようにして、スポットライトの下で何やら作業をしていたが、ボビーの姿を認めると眼鏡を外して一笑した。
「しばらくね、リコ」
「おや・・・?、こいつは驚いた、リナさんで?」
大きく両腕を広げて小さな丸い身体を揺らしながら、リカルドは、ボビーの脇を擦り抜けてリナに握手を求めた。
「変わりないようね」
「リナさんがいらっしゃったとなれば、・・・ちょっとお待ちください」
リカルドは、踵を返しながら両手を胸の前で突き合わせて気合いを入れた。
「おいおい、俺の方も忘れんなよ」
「わかってますって。座って待っててくださいな」
舌打ちをするボビーをなだめながら、リナはショウケース前に置いてある椅子に座った。
ほどなく、蒸気の立つ音に乗って香ばしい匂いが漂ってきた。
「ちぇっ、俺には屁もださねえくせに」
湯気の立つ白い小さなカップを両手に持って、リカルドが奥から出てきた。
「さ、どうぞ」
「まあ、憶えてくれてたのね、リコ」
カップをショウケースの上に置くと、リカルドは得意げに腕を組んで、尖った鼻先を上に向けた。
「本当の客は俺だぞ、リコ」
「あ、そうでした」
すねるボビーを、リナはなだめ続けながらカップに口を付けた。
「・・・ああ、やっぱりここのが一番おいしいわ」
「けっ、これじゃカフェ・ローマにも勝てねえよ」
「そうすねないでよ、ボビー」
前からここのエスプレッソには定評がある。もちろん、メニューとして出しているわけではないが、大口の客や常連にだけのサーヴィスだ。
「ねえ、リコ、娘さんお元気?、もうすぐお祭りでしょ?」
「ええ、おかげさまで。今度孫が生まれるんですよ」
ショウケースの端から、明るい声が返ってきた。
「まあ、ほんと?」
「六月の祭りには、顔を見ることができるでしょうが・・・」
「じゃ、今年はちょっと寂しいわね」
「まあ、そうですね・・・」
ボビーはずっと背を向けたまま、足を大きく組んでいる。
「さ、お待たせしました、40口径でしたね」
「早くしてくれよ、忙しいんだからさ」
「どうぞ」
リカルドがショウケースの上に置いたのは、スイス製の中型銃だった。
「あれ?、ねえボビー、前のベレッタは?」
「探偵にゃでかすぎてさ。あまり撃つ機会もないし」
ボビーはその銃を手に取って、マガジンを抜いて中に弾があるかどうか確かめ、続いてスライドを引いてチェンバーの中も確かめてから、再びマガジンを入れてスライドを落とし、ようやく構えて適当なところに狙いをつけた。
「そういうの癖なの?」
「今更何言ってんだ、こいつに命預けるんだぜ?、弾のあるなしは無意識で確認するのが常識さ」
「ふーん、常識ね」
「ホルスター、好きなの持っていってください。弾もどうぞ」
「いいのか、リコ。悪いな」
途端に明るくなったボビーの顔に、リナは呆れて背を向けた。
「・・・馬鹿撃ちのボビーがねえ・・・」
「リナさんは、今何をお使いで?」
「前と同じよ」
「9ミリ?」
「ええ」
リカルドは、細かく頷いて納得した。
「あたしも、レンジ以外であんまり使う機会がなくなったわ。買い替えてもいいんだけど、あたし、あんまり好きじゃないのよね。・・・あれみたいに」
あれとは、満面の笑みをたたえて、ホルスターを物色するボビーのことだ。
「見ますか?、同じやつ」
「ええ、見せて」
「最近出たばっかりのモデルでしてね・・・」
リカルドは、ショウケースから同じ銃を出してきた。
「全部スチール?」
「はい、そうです。手頃な重さでしょう?」
リナは、掌に銃を乗せて、重さを確かめるようにして眺めた。
「PPKに似てるわね」
リカルドは、ただ笑って「そうですね」と答えた。
「でもまあ、精度に関していえば、ワルサーの比ではないですよ」
グリップを軽く握ってから、マガジンを出した。
「シングルね」
「ええ、7、8発入ります。9ミリも、45口径もありますよ。今お使いの銃も、こっちで買い取らせてもらいますが」
「・・・そうね、・・・考えとくわ」
「はい、ありがとうございます」
リナは、マガジンを入れると、スライドを落としてケースに置いた。
「なあ、リナ、どれがいいと思う?」
いろいろなタイプのホルスターを手にしながら、おもちゃ売り場の子供みたいな顔でボビーが振り向いた。
「前みたいに三つ持てば?」
エスプレッソが冷めないうちに、リナはカップを空けた。
散々迷った挙げ句に、ボビーはクロスドロウタイプのホルスターと、ベルトに取り付けるマガジンキャリアを持っていった。
「幾らサーヴィスったって、マガジンキャリアまで持っていく?」
「まあまあ」
ボビーの顔からは、ずっと笑いが絶えない。
「後でセンター(市警本部)のレンジにでも寄るか」
「そんなヒマないんじゃなかったの?」
調子に乗ってはしゃぐ子供を叱るように、リナは“馬鹿撃ちボビー”をたしなめた。
「・・・ねえ、先刻の話なんだけど」
「ん?、レンジに寄る話か?」
「違うわよ。・・・引き時かも知れないって、リコの店に来る前に言ったでしょ?」
「ああ、あれか・・・」
信号で車が止まり、ボビーはサイドブレーキを引いてシートに身体をもたせかけた。
「ねえ、どうしてそう思うの?」
「・・・気づいてないのか?」
「え?」
信号が変わり、ボビーはサイドブレーキを引いて車を出すと、また黙りこんだ。
「気づいてないって、なによ」
苛立ちすら感じられるリナの言葉に、ボビーは重い口を開いた。
「・・・センターで一緒に組んで仕事をした四年の間、いろんなことがあった。休みなんかそっちのけで、二十四時間働きっぱなしだった。俺は足を撃たれたし、君なんかアーマーの上から二度も撃たれてる。同僚も五人死んだ。・・・なのに君は、俺の前では決して涙一つ見せなかった。どんなに辛いことがあっても」
リナは、何かで鋭く突かれたように身体をびくつかせた。
「・・・初めて見たよ、君の涙を。それだけ弱くなったって証拠さ。引き時だとは思わないか?」
リナはすっかり黙りこんで、サイドシートで背を丸くしている。
迂闊だったのだろうか。確かにボビーの言う通り、彼の前でだけは涙を見せない努力はしていた。あの頃は仕事が全てだったし、涙を見せて辛いと思われたくなかった。
弱くなったのかもしれない。辛いのかもしれない。だが、ボビーの前で泣いたのは、辛かったからじゃない。ただ、どうしようもなかっただけなんだと、何かを言うより先に、涙が出てしまったんだと、リナは自分に言い聞かせた。
「・・・どうするんだ、これから」
もうすっかり事務所前に到着しているのも知らず、リナはやっとシートベルトを外した。
休暇はたっぷり一週間取ってある。今更キャンセルなどできはしない。尤も、されたのはリナのほうだが。
「四百で手伝わないか?」
リナが手の指を全部広げたのを見て、ボビーは呆れたように頷いて車を降りた。
祖父は、ミルウォーキーの片田舎では名うての保安官だった。父は、数年前まで現役の捜査官だった。歳の離れた兄も同じ道を選んだが、その兄が殉職したことで、父は現役をリタイアした。
リナも父や兄と同じ道を歩むことを、母は最後まで反対した。今でも恐らくそうだろう。だからというわけではないだろうが、結婚の話を一番喜んだのは母だった。結婚しても仕事は続けるつもりだったが、それでも母は喜んでくれていた。
父は、仕事のことについては何一つ反対しなかった。センターに口利きしてくれたのも父だった。リナが撃たれた時には、自分の仕事を放り出していち早く病院に駆け付け、意識が戻るまでそばに付き添った。
二度目に撃たれた時は、大きなヤマを抱えていたので病院には来なかった。ただ一言、電話で「まだ続けるのか?」と言ってきたのを憶えている。
警官を辞めることが、両親のためになるとは、リナは少し足りとも思っていない。祖父や父や、亡き兄の意志を受け継いで、警官としての職務を全うするのが自分に託された使命なのだと、リナは感じていた。
「お帰りなさい」
出迎えたミディの笑顔は、すぐに凍り付いた。
「ミディ、紹介しよう、こちらはリナ・エトフォード。現職の警官だが、訳あって今週手伝ってもらうことになった」
「よろしくね」
「ミディ・クレイルです。こちらこそよろしく」
リナの顔を見据えたまま、辛うじてミディは微笑みを見せた。握手もどことなくぎこちない。
「俳優志望なんだって?」
「はい、ミュージカルを」
「そう、ミュージカルのほうなの?・・・だったら秘書は関係ないわね・・・」
「え?」
「ううん、なんでもないわ。頑張りましょうね」
一瞥したボビーは、背中を向けて肩をすくめていた。
「さ、リナ、君のデスクをつくろうか」
事務所の一角を仕切ってつくった部屋に入ろうとするボビーを、リナは呼び止めた。
「ちょっとボビー、あたしにデスクワークができると思ってるの?」
「・・・それもそうか」
「ねえ、仕事の前に、もう少しだけ休暇気分を味わいたいわ。車貸してくれない?、買い物に行きたいの」
放り投げられたキーを受け取ると、リナはウインクをしてよこした。
「あの、・・・あたしも買い物に行きたいんですけど」
やや大袈裟ぎみに、ボビーが返事してみせた。
「報告書は、できてるのか?」
「はい、できてます」
「いいじゃない、一緒に行きましょう。そのほうが楽しいわ」
ボビーは、背を向けてかぶりを振ると、大きく両手を広げた。
「はいはい、いってらっしゃい、お気を付けて」
出掛けに、ボビーが呟いた「七百か・・・」の一言で、リナは階段を下りる間中笑いが止まらなかった。
「先にあたしの買い物済ませていいかしら?」
「ええ、どうぞ」
通りを挟んだ向かいの駐車場へ行こうとして、リナは立ち止った。
「どうかしたんですか?」
消火栓に鍵を付けて置いてあるリナのMTBを、少年がじっと見つめていた。
小綺麗なオーヴァーオールに真っ白なTシャツ、くすんだブロンドの髪はくしゃくしゃで、つぶらな瞳はどこか寂しげだ。
ホームレスには見えないが、就学生の出歩く時間ではない。胸の大きなポケットに両手を突っ込んで、少し離れたところからMTBをじっと見ている。盗まれはしないだろうが、少し気になった。
「いいわ、行きましょう」
やっと払いが終わったのだから、傷でも付けられては迷惑だが、少年に不審な様子はなかったので、そのまま遣り過ごすことにした。
「あの、クレイルさん・・・」
「ミディでいいです」
「そう?、じゃあたしもリナでいいわ。ねえミディ、報告書、ほんとにできたの?」
「まさか。あたし昨日も働いたんですよ、日曜日なのに」
「でしょうね」
「も一つ、買い物があるっていうのも嘘です」
リナは、ステアリングを握ったまま肩をすくめた。
「あなたのこと、もっと聞かせて欲しいと思って」
信号で止まって、リナはミディのほうを向いた。攻撃的な眼差しは相変わらず、リナに突き刺さっていた。
「・・・あいつは手が早いから気を付けて、って言おうと思ってたけど、もう手遅れみたいね」
ミディは、両手を膝頭の上に置いて、少し俯いた。
「・・・いいわ。でも、先に買い物させてね」
リナの微笑みを、ミディはどう受けとめたのか。リナに悪戯心がなかったと言えば、嘘になるだろう。話したところで何も起こらないのは、ミディにもわかるはずだとリナは思っていた。
「ここのシーフードは最高よ」
サウス・ストリート・シーポートで買い物を済ませて、二人は桟橋沿いを散策していた。
さすがに午後ともなると、夏が戻ってきたような日差しが容赦なく照り付ける。ブルックリン・ブリッジを眺めながら、心地好い潮風に吹かれていると、リナはようやく休暇気分になってきた。
「昔よく、こうやって風に吹かれに来ていたわ。仕事が辛くなったり、行き詰まったりしたときにね」
リナが振り向くと、風になびく髪を押さえながら、ミディが怪訝そうにこちらを見ていた。
「・・・もちろん、一人でよ」
歩を進める度に、板張りの舗道が気持ちよく音を立てる。
「恋人だって、四年も付き合った人はいないわ。ニールとだって、やっと一年経ったくらいだもの」
「その人、まだリナのこと好きでいるはずだわ、きっと」
「だといいんだけど・・・」
観光客を乗せたシーポート・ラインの船が、汽笛を鳴らした。両舷の外輪がゆっくりと水を掻きだす。
「お仕事、大変なんでしょう?」
「ん?、まあね。一日中パトロール三昧よ。制服警官のほうが大変だってわかったわ」
「タフなんですね」
「うふふ、そうね。よくタフが服着て歩いてるって言われたわ」
デッキで手を振る観光客に、リナは手を軽く振り返した。
「その頃のボビーって、どんなだったの?」
「そうね・・・、正義の味方ってところかしら。怖いものなんかないみたいだったわ。射撃もうまかったし。彼ね、銃をいつも三丁持っていたの。脇と、背中と、くるぶしに」
「くるぶしに?」
「そう。“馬鹿撃ちボビー”って、あだ名されたくらいよ」
「撃たれたことは?」
「あるわよ、ほら」
そう言うと、リナはやおらシャツを捲り上げた。覗き込んだミディは、同情とも感心ともとれない複雑な表情を見せた。
「ボディアーマーしてたんだけど、貫通しちゃって。骨に当たらなかったら、たぶん死んでたわ」
ミディは、口を一文字に結んでかぶりを振った。
「とてもそうは見えないわ。今のリナからじゃ」
「それは、喜んでいいのかしら?」
肩をすくめるミディに、リナは人差し指を立ててたしなめるような目つきをした。
「ボビーは、リナのこと好きだったのかな」
「・・・さあ、どうかしらね」
「ずっと一緒にいたのに?」
「そうだけど、仕事だから・・・」
「じゃ、リナは、ボビーのこと好きじゃないの?」
蒸気船の煙が、風に乗ってたなびいてくる。煙は青い空ではなく、灰色の摩天楼へと消えていく。
「・・・誤解、するかもしれないけど、わかりやすく言うわ。もしね、お互いに警官じゃなくて、あたしがボビーに出会ったら、・・・あたしは彼を愛していたわ」
ミディは、汽笛に驚いたのか、その言葉に動かされたのか、胸に手を押し当てた。
「四年も一緒にいたけど、彼に恋するほどNYはヒマじゃないのよ」
観光客の歓声はやがて薄れ、岸壁に打ち付ける波の音が耳についた。
「・・・あたしなら、力になれるわよ、ミディ」
ミディは、少し俯き加減で頷いた。そのスカイブルーの瞳の輝きに、リナは改めて彼女の純粋さを感じていた。
「そう、その笑顔を大切にね」
リナは、唇を少し噛んだ。自分の言ったことに嘘はないと、心の中で確かめるかのように。
「・・・あ!、いけない、すっかり忘れてた」
ミディは、リナの腕をとって、鴎の舞う桟橋を駆け出した。
「何だと、先に帰った?」
彫りの深いボビーの目許が、真ん中からずれるように歪んだ。リナは、車のキーをデスクで座っているボビーに手渡した。
「レッスンがあるの忘れてたんだって」
「ったく、しょうがないな」
腕時計を見遣ってから、ボビーは書類をまとめてデスクを立った。
「買い物にしちゃ、ずいぶんゆっくりだったようだが、・・・もう夕方だぞ」
「ん、まあ、いろいろと・・・」
「ただで働いてくれってんじゃないんだからさ、ちゃんと頼むよ」
ボビーの言葉には、嘆きにも似た困り果てたようなニュアンスがたっぷりとあった。
「七百だぞ、ったく・・・」
「あれ、どこ行くの?」
「センターだよ。あっ・・・」
上着に袖を通しかけたまま、ボビーは悔しそうに唇を噛んだ。
「センター?」
「しまった・・・、内緒だったのに・・・」
「内緒って、何よ」
ボビーは、しょうがないというような顔をして、リナの許へ歩み寄った。
「・・・君を信用してるから言うけど、でかいヤマっていうのは、実はセンターの呼び立てなんだ」
「そうなの?」
「ディコイ(おとり)が足りないから、手伝ってくれって。ノーギャラじゃ断ったけどさ」
「退職者まで使うのね・・・」
「口外無用だぞ、リナ」
リナは、指を立てて答えた。
「たぶん遅いから、六時になったら帰っていいよ」
「OK、気を付けてね」
「頼んだよ」
訝しがるボビーに、リナは微笑んで首を傾げた。
「・・・君と結婚しなくてよかったよ」
「え?」
玄関の扉を足で押さえて、ボビーは襟を正した。
「浮気なんかすぐバレちまうからな」
階段を駆け下りる音が、しばらくリナの耳に響いていた。
「乾杯!」
この数日で、すっかり飲み癖がついてしまったようで、リナは妙に明るかった。
「しかし、貼紙見たときは驚いたわ。だって、お土産買ってないんですもの」
笑ってはいるが、本当のところは、シンシアも出張帰りで疲れているのだろう。
浅黒い顔はすっかりメイクも落とされ、緩いウエーヴのかかったダークブロンドの髪を後ろで束ねて、陸上選手のようなしなやかな身体をTシャツとショートパンツで包み、シンシアは窓際の黒いカウチですっかりくつろいでいる。
「ごめんね、シンシア」
「なに言ってるのよ。こんなときだからこそ、とことん付き合うんじゃないの」
シンシアは、細い三日月のような眉を顰めて、さも疎ましそうに言った。
リナは、前後にしてダイニングチェアに座り、背凭れに組んだ両腕を乗せて、そんなシンシアを嬉しく思っていた。
「じゃ、今週はずっとボビーの仕事手伝うのね?」
「うん、何かしていたくて。じっとしててもしょうがないし」
「そうよね。わかるわ」
シンシアが空けたグラスに、リナは昼間買ってきたスパークリングワインを注いだ。
「ボビーは、知ってるの?、ニールのこと」
「話してはいないけど、いろんなところから聞いたみたい。休暇のことも知ってたから」
ノックに気づいたのは、シンシアのほうだった。
「来たみたいよ、新しいお客さんが」
リナは、グラスを持ったまま玄関の鍵を開けた。
「いらっしゃい、ミディ」
少し物怖じした様子で手を後ろにやって、ミディが立っていた。
「こんばんは。あの、ほんとにおじゃましてもいいんですか?」
「呼んだのはあたしなんだから、さ、入って」
部屋に入ったミディは、首をぐるぐる回して部屋中を見回した。
「素敵なお部屋ですね。いいなあ」
「紹介するわ、隣に住んでるシンシア・ルーティ。証券会社に勤めてるの。ウォール街よ」
シンシアは、さっと立ち上がってミディを迎えた。
「まあ、なんてキュートなのかしら」
「彼女は、ミディ・クレイル。役者志望よ」
「道理で。あたしがプロデューサーなら、主役間違いなしよ」
シンシアと握手をかわすミディに、リナは何やら耳打ちをした。
「なによ、リナ」
「ううん、なんでもないわ。ね」
微笑んで頷くミディにグラスを渡すと、リナはキッチンに向かった。
「さ、乾杯しましょ。ミディって呼んでいいかしら」
シンシアとミディは、カウチに腰を下ろしてグラスを合わせた。
二人の会話をなんとなく聞きながら、リナはキッチンで魚貝類を焼いていた。金串にそれぞれ、海老、蛤、ロブスター、鱈や鱒の切り身などを刺し、軽く塩をふって火にかける。
「さ、できたわよ」
テーブルに、焼き上がった魚貝類と、ソースの入った小さなトレイが置かれた。
「ソース好きなのつけて。これはタルタルソース、こっちはチャイニーズ、フレンチ、イタリアン、ソイ・ソース」
「うわあ、おいしそう」
「ねえリナ、あなた料理得意だっけ?」
「やればできるのよ。さ、召し上がれ」
腰に手をあてて得意そうなリナに、程なく感嘆の眼差しが注がれた。
映像だけ流していたヨーロッパ映画のビデオが終わって、かけっぱなしのCDに飽きたころ、ベッドからミディの寝息が聞こえた。
「ずいぶん飲んだわね」
今日買ってきたもので残ったものと言えば、チーズの詰め合わせとワインが半分だけだった。
「そうね。そろそろ片付ける?」
「手伝うわ」
「静かにね」
ベッドの辺りの明かりはなるべく消して、二人はキッチンに立った。
「明日休みとっといてよかったわ。・・・洗剤とって」
「ごめんね、シンシア」
「いいのよ。とってなくても今日は同じことをしたわ。それより、リナこそ大丈夫?」
「大丈夫よ、あたしは」
「・・・そうよね、もっと辛いこともあったもんね」
「ありがとう、シンシア。あとはやるから、部屋で休んで」
「そう?、じゃお言葉に甘えて」
「おやすみ」
ニンジャのような足取りで、シンシアは自室へ戻っていった。
リナは、洗い物を済ませて玄関の鍵を閉めると、キッチンを残して明かりを消した。
排煙用に開けておいた窓を静かに閉める。摩天楼の隙間から、ハドソン川の煌めきが垣間見えた。
「・・・今日もカウチか・・・」
はだけたミディのブランケットを整えて、リナはカウチに寝そべった。
休暇というのは、こうもゆっくり時が流れるものなのかと、リナは思った。
「おはよう。ボビー、いるの?」
応接用のカウチに肩が見えたので、リナはカウチの背を蹴飛ばした。
「朝よ、ボビー。起きて」
ボビーは、慌てたように身を起こすと、リナを一瞥して顔を歪めた。
「・・・もう少し、マシな目覚まし頼むよ・・・」
カウチの上で上半身を起こして、眠気を払うかのように手を顔に擦りつけて、両の膝を叩いた。
「あー、よく寝た」
「遅かったの?」
「六時」
「なんだ、じゃ入れ違いだったのね?」
「朝の六時」
リナは、隅のキッチンで、とりあえず湯を沸かした。
「コーヒーでいい?」
「ああ、ありがとう」
「あ、ねえ、これ食べる?、来る途中で見つけてあんまりおいしそうだったから、ランチにって思って買ったんだけど」
キッチンに置いた紙袋から、サンドウィッチの包みを出して、指差した。
「いいのか?」
「いいわよ。まだあったかいから食べて」
よたよたとボビーが包みを持っていった。
「・・・あ、これD&Dのだろ?」
「なんだ、知ってるの?」
「あそこはサブマリンがうまいんだ」
「何それ?」
「フランスパンのサンドウィッチさ」
「ふーん、潜水艦ね・・・」
ハムアンドエッガーを頬張るボビーに、リナはコーヒーを持っていった。
「もう、デスクで食べてよ。そこは接客用のテーブルじゃなかったの?」
「いつもここだよ。それよりリナ、ちょっと話があるんだ」
「何よ」
リナは、カップを持ってミディのデスクに座った。
「あれ?、・・・ミディは来てないのか?」
「彼女、今日はお休みよ」
「なんだって!?」
「もう起きたころかしら。昨日シンシアと三人で飲んでたのよ」
「ったくもう・・・」
「いいじゃない、その分あたしがやるから」
コーヒーを飲み干して、ボビーはしばし頭を抱えた。
「・・・ねえ、話って何よ」
「あ、そうだった。・・・デスクワークは不得手だって、言ってたな」
「得意じゃないけど、それが?」
「・・・ん、ミディがいないんじゃ辛いけど・・・。リナに、こっちの仕事を手伝って欲しいんだ」
「こっちの仕事って、センターの?」
ボビーは、真剣な眼差しで頷いた。
「ゲイルには言ってある。奴のお呼び立てでね」
「ゲイルなの・・・。大体そんなところじゃないかって思ってたわ」
「午後までに、一緒にセンターへ来て欲しいんだ」
カップを両手で持ちながら、リナは湯気の向こうのボビーを見つめて考えた。
「・・・ハードなのはお断りよ。一応これでも休暇中なんだから」
「分署には、うまく言っておくよ。まずいことになったらなったで、ゲイルも手を貸してくれるだろうし・・・」
「ギャラは?、いくらくれる?」
「五百払ってるだろ!?」
声を荒げたボビーに、リナは思わず吹き出した。
「わかったわ、ボビー。お供するわ」
納得したように頷いて立ち上がると、ボビーはシャワーを浴びに出た。
「つくづく思うわ。あたしは根っからの警官なんだって。ねえボビー?」
「それはそれでいいけど、DEA(麻薬取締局)の連中には俺の助手って言ってあるんだからな」
「心配しなくても、そのうちばれるわよ」
久しぶりに歩くセンターの廊下。勝手知ったるライトグレイの廊下。何も変わってはいなかった。
「よう、リナ。ごぶさただな」
「はーい、ゲイル。あなたも相変わらずみたいね」
「ああ、麻薬課に配置替えされた以外はな」
面と向かってゲイル・スワイガートと話すと、首が疲れる。七フィートはあろうかという身長に、オフィスよりもリングが似合いそうな体格、愛用の銃も超弩級だ。イースト・ハーレムの悪魔と恐れられた69分署時代から、その剛鋺ぶりは衰えていない。
剃り立てのスキンヘッドをさすりながら、グランド・キャニオンみたいな目鼻口が、一応笑っている。無類の猫好きというのは、まだあまり知られていない。
「どうだ、勘は鈍ってないか」
「失礼ね、まだ現役よ。リタイアしたのはボビーよ」
「じゃ俺は勘が鈍ってるってことか?」
『違うのか?』
二人から突っ込まれて、ボビーは少し肩を落とした。
「・・・正直言うと、射撃は少し鈍くなってるかも知れないわ」
「じゃ、作戦まで練習しとけ。銃はあるのか?」
「あ、・・・分署のロッカーの中・・・」
「ちっ、しょうがねえな。俺の名前でロブに頼め。なんとかしてくれるはずだ」
「ありがとう、ゲイル」
「ちゃんと勘が戻るまで練習しろよ。自分を守るのは自分自身なんだからな」
「わかってるわよ」
ゲイルは、ばかでかい手を振りながら、階段の下へ消えていった。
「・・・いつまでしょげてんのよ。レンジへ行くわよ」
ロブ・マクマナーは、地下にあるシューティング・レンジの管理人で、とっくに引退の身だが、本部長の口利きでここに残っている。唯一の同期生だそうだ。
「おや?、リナじゃないか」
リナにもまだ小さくしか彼の姿は見えないのに、廊下の突き当たりにいるロブは、もう手を上げていた。
「まあ、ロブ、憶えててくれたの?」
「ああ、忘れるもんか」
握ったロブの手は、前より皺が増えて細くなっていた。
ISPCのTシャツに、NYPDのロゴ入りキャップ。これは今も変わらない。歳にしては引き締まった身体もそうだ。
「元気?、変わりない?」
「ああ、元気だよ。孫娘が結婚してな」
「ドロシーが?、まあ、おめでとう」
「もうそろそろ、わしも引退かな」
「まだまだ、あたしが結婚するまではだめよ」
「では早いことしてもらわないと、働き過ぎで死んでしまいそうじゃ」
ロブは、やっとボビーに気づいた。
「お、ボビー、また来たか。239調子はどうかね?」
「ああ、まあまあだ」
「そうか。わしゃどうもその口径が気にいらんのじゃがな」
「好みさ。要は相手を素早く黙らせる、これに限るよ」
「そうかのう・・・」
「リナ、先に行ってるぞ」
ロブが差し出したカートリッジのケースを受け取って、ボビーはレンジに入っていった。
「ゲイルから、先刻連絡があったよ。どれにする?、グロックでいいか?」
「ええ、いいわ」
ロブは、後ろの棚からホルスターに入った銃とカートリッジを出してきた。
「ねえ、書類は?」
「構わんよ。わしの信用貸しじゃ」
銃の安全をリナに示しながらそう言うと、ロブは皺だらけのウインクをよこした。
「ありがとう、ロブ」
硝煙の匂いを懐かしいと感じるくらいだから、相当勘が鈍っているに違いない。
仕切りの中で、カートリッジをマガジンに詰めていく。防護グラスとイヤマフラーをつけて、まずは十ヤード先に人体標的をリリースする。
マガジンをグリップに叩き込み、スライドを引く。リナは、大きく息を吐き出した。
「わっ!」
肘が大きく上がり過ぎて、サポートの左手が離れてしまい、初弾は完全に外れてしまった。足のスタンスを切り直し、どっしりと腰を据える。
少し前傾ぎみに撃ってみたが、弾は肩をかすめただけだ。やはり相当鈍っている。この程度じゃ、とても実戦になど通用しない。
構えた姿勢のまま指をトリガーの外に出し、フロントサイトに意識を集中させた。サイトの切り欠きが、まるでスローモーションのように標的を捉える。
「!」
薬莢が、甲高い音を立てて次々とリナの足元に落ちる。スライドが後退し切って、リナの吐く息に白い煙が揺れた。
マガジンを出して銃をテーブルに置くと、リナは標的を回収した。
「・・・それでいいんだよ、それで」
いつの間にか、ゲイルとボビーが後ろにいた。
下半分がちぎれてなくなっている標的を眺めて、リナは一人ほくそ笑んだ。
「すまんな、待たせて」
ミーティングルームに現われたゲイルは、手にファイルとハンバーガーを持っていた。
「メシ食うヒマもねえよ」
「ずっとそんななの?」
「今月はずっとこんなさ」
適当に机を囲んで、リナとボビーとゲイルが席に着いた。
「で、あたしは何を手伝うの?」
「別に大したことじゃないんだ。手入れの時に、いつものようにサポートしてくれれば」
「なんだ?、そうなの?」
「ただ・・・」
ボビーは言いかけて、黙っているゲイルを見遣った。
「ん・・・、是非とも君の意見を訊いておきたくてね」
二人とも仕事の顔になっているのに、リナは少し緊張してきた。
「ここ数ヵ月、マンハッタン内で麻薬絡みの事件が急増しているんだ。件数の増減は大したファクターじゃないんだが、一つ気になることがあってね」
ゲイルは、携えてきたファイルを開いた。
「七、八月の、犯罪発生頻度だ。わかるだろ?、アッパー・イースト地区の件数増加が顕著なんだ」
ゲイルのでかい指が、地図を指し示した。指の大きさと縮尺がぴったりきていてわかりやすい。
「どう思う?、リナ」
ファイルを自分のほうに手繰り寄せて、リナは資料に見入った。
「・・・容疑者に女性が多いのが気になるわ。それも未成年や学生じゃなくて、主婦っていうのが」
「そうなんだ」
ゲイルは、ハンバーガーを口に頬張り入れ、パン屑のついた手を払った。
「・・・麻薬課では、新たなコネクションが生まれていると考えているんだが」
「ん、・・・そうね、その可能性あるわね」
「そうか、やっぱりリナもそう思うか・・・」
ゲイルは、少し身を後ろに引いて腕を組んだ。
「ルートは解明したの?、中南米?、それともアジア?」
「それなんだが・・・」
ゲイルは、一枚の写真をファイルから出してきた。
「今までの捜査で、浮かんできたのがこの男だ」
隠し撮りらしく、不鮮明な写真だが、男の身体的特徴を理解するには十分だった。
「詳しい経歴は不明だが、ハンガリー系の白人で、通称“ナイン”」
「ナ・イ・ン?、9ってこと?」
「だろうな。こいつがリーダー格らしいんだ。まだ内偵中だが、こいつが中心になって、地元のギャングと結び付いてるようなんだ。で、肝心のルートなんだが・・・」
「どうやら、合成麻薬なんだ」
「合成?」
ボビーの言葉に、リナは酷く驚いた。
「ボビーの協力で、ディーラーから手に入れたやつを分析したら、そういう結果が出た」
突然、電子音があたりに鳴り響いた。
「えい、くそっ!」
悪態をついたのはゲイルだった。
「ほんとに忙しいのね」
「すまんな。週末までには、なんとかカタ付けるつもりだ。早まるかもしれんから、心づもりはしておいてくれ。決まったら、すぐ連絡する」
「OK、わかったわ」
ゲイルは、ファイルを脇に抱えて立ち上がった。目で追うと、首の関節がどうにかなりそうだ。
「期待してるぞ。できれば、製造元まで突き止めたいが・・・」
かぶりを振って、ゲイルは部屋を出ていった。
リナは、ボビーを見遣ると、疲れたように溜息をついた。
「・・・これがハードじゃないってのが、NYの素敵なところね」
ボビーは、苦笑いで遣り過ごすしかなかった。
「でも、一つわからないことがあるわ」
ランチに向かう車の中で、リナが怪訝そうに呟いた。
「なぜ主婦層に広がったのかしら。しかも、アッパー・イーストっていえば、高級住宅街よ」
「それなんだが、入手した麻薬を分析したところ、極めて依存性の低いことがわかったんだ」
「あ、なるほど、それで今までドラッグに縁のなかった層に広がっていったってこと?」
「だろうな」
「でも、あたしがこんなこと言うのは変だけど、ドラッグから依存性を取り去ってしまえば、それはそれでいいとは思わない?」
ボビーが横顔を顰めて大きく首を振ったのを見て、リナは助手席で小さくなった。
「今の発言、いくら冗談でも笑う気にはなれないね」
「・・・ごめんなさい」
「昼メシおごれよ」
こればっかりは仕方がないと、リナは失言を反省した。
朝、立ち寄った店でサンドウィッチを買って、二人はオフィスに戻った。
「あれ、あの子・・・」
昨日見かけた少年が、またリナのMTBをじっと見つめている。
「ん?、どうした」
「昨日もいたのよ、あの子」
背が高いので、昨日は十二、三歳くらいに見えたが、まだ顔は幼く十歳前後に見受けられた。
リナだけ、気づかれないように大回りして、オフィスのあるビルに入った。
「ホームレスだろ?」
「そう見えないこともないけど、・・・違う気もするわ」
オフィスに戻ったリナには、少年のこともすっかり忘れさせるような、ハードなデスクワークが待っていた。
「ミディの分までよろしく」
自分のデスクで、サブマリンにかぶりつくボビーを横目で見ながら、リナはさながら彼が悪魔のように思えて仕方なかった。
「・・・よくもまあ、これだけ仕事を溜められるわね」
「忙しくなるってわかってたら、依頼もある程度断ったさ」
それでも日暮れまでには、なんとか全部整理がつくようになった。
「・・・リナ、・・・六時だよ。・・・リナ?」
「え?、なに?」
ボビーが、自分の後ろの壁の時計を指した。
「え、もうそんな時間なの?」
「キリがついたら、帰っていいよ」
まるで聞こえていないように、リナはモニターに向かっている。
「・・・あー、もう止めた。あとはミディに残しとこ」
ボビーがコーヒーを勧めてくれたが、帰ってすぐにでも眠りたいのでリナは断った。
「じゃ、お疲れさん」
「お疲れさま。明日もサンドウィッチ買ってこようか?」
「あ・・・、いいよ。ありがとう」
「そう・・・。じゃ、お先に」
デスクに座ったまま、ボビーは手を上げた。朝食の用意は、いつもミディの仕事なのだろう。
ジーンズのポケットに、MTBの鍵を探りながら階段を下りた。
「あ、あの子・・・」
すっかり陽の落ちた東ヒューストン通りに、あの少年のシルエットがあった。
リナは、そっと近づいて驚かさないように声をかけた。
「ねえ君、名前は?」
驚かさないというのはやはり無理があるらしく、少年は身体をびくつかせて振り向いた。
「名前、教えて」
「・・・・・・ニック」
遠くから見ていた印象と、かなり違った。背の高さにごまかされ、思っていたよりだいぶ幼いようだった。
「ねえ、ニック、ここで何してるの?、誰かおうちの人は?」
「・・・お父さん、さがしてるの・・・」
「お父さん?、はぐれたの?」
ニックは、首を何度も横に振って、傍らにあるリナのMTBを指差した。
「これ、買ってくれるって言ったのに」
リナは、彼とMTBを交互に見遣った。
「そう・・・。ねえ、乗ってみる?」
「いいの?」
グレイの瞳が、急に輝きだした。リナは、鍵を外すと倒れないようにハンドルを持った。
「これ、おねえちゃんの?」
「そうよ」
「お父さんに買ってもらったの?」
「ん?、ううん、おねえちゃんが自分で買ったのよ」
「へえ、いいなあ」
サドルに跨って、届かない足をぶらぶらさせながら、ニックは楽しそうにハンドルを握った。
「さ、ニック、おうち帰りましょう」
花がしおれるようにニックの身体から元気が抜け、力なく首を振った。
「どうして?」
「だって・・・、お父さん・・・」
リナは、ニックの小さな肩を叩きながら溜息をついた。今夜のゲストは、どうやら彼になりそうだ。
途中で食事を済ませて、リナはニックを連れて部屋に戻った。
ミディの書き置きを読みながら、バスルームのシャワーを捻った。
「ねえ、ニック、シャワー浴び・・・」
今日もリナは、カウチで寝ることが決まった。
「・・・しょうがないわね」
ベッドですーすー寝息を立てているニックに、ブランケットをかけると、リナはシャワーを浴びた。
行方不明者リスト照会の回答がセンターから帰ってきたのは、十一時を少し過ぎていた。
『わかったわよ、リナ。その少年は、ニック・カーライル、九歳。捜索願を出したのは、テッド・カーライル、住所は、西115丁目234。モーニング・サイド・ハイツの辺りね』
昔なじみの交換に礼を言うと、リナはフックを押さえた。
「・・・テッドって、男性の名前よね・・・」
もう夜も更けていたが、リナはメモした番号をダイヤルした。
「・・・留守番電話か・・・」
明日ニックを連れていくことと、ここの番号を告げて、リナは受話器を置いた。
カウチにブランケットを用意して、リナはニックの様子を覗き込んだ。
「・・・よほど疲れてるのね・・・」
身じろぎ一つせず、ぐっすりと寝入っているようだ。
欠伸を一つして、リナがカウチに腰を下ろしたとき、電話が鳴った。
『カーニヴァルだぜ、リナ。召集がかかった』
電話の向こうのボビーは、柄になく興奮しているようだった。
「いつなの?」
『朝六時にセンターに集合だ』
「・・・了解よ、ボビー」
『ぐっすり眠れよ。おやすみ』
電話を切ってから、リナはニックのことを思い出した。シンシアは明日から仕事だし、ミディに頼むのも気が引ける。
「・・・いっそ連れていく?・・・」
考えるのは明日にして、リナはカウチに横になった。
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