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クラウリーナ・エルレディア 第三章
「デュラス兄さん、そろそろ行かないと」焦っているのはむしろサークスのほうだった。
「・・・おう」
はだけた上半身に玉のような汗を滴らせ、デュラスは木剣を置いた。
「僕の分まで頑張ってよ」
デュラスは力強く頷いた。弟のためエルレディア家のため、そして何より小さな娘のために、父親になったデュラスの最初の仕事でもあった。
隊の名誉、男の面目、己の意義、それぞれの思いを胸に秘め、剣士達は魂を預ける刀剣を携え、白い道場へ上がる。勝ち抜いた者に与えられる剣将の位称は、それらの思いを叶えたという証明でもある。
内外から多くの出場者が、今年も剣術宮試に参加すべくやってきた。過日の予備予選にて、本選出場枠の十六名が全て決定し、ゴルドレック最強の剣士達がその雌雄を決する時を今や遅しと待ち構えている。
古来、軍の士気昂揚のために開かれたのが最初とされ、宮殿内にあった近衛軍の教練場を試合場とし、上位入賞者には昇進と叙勲があったために宮試の名が付けられた。現在は、市都新市街にある公営剣術道場にて開催されている。
「よし、そのくらいでいいじゃろう」
クラウリーナは恐らく気付いていないだろうが、ミラウにはわかっていた。衣甲を着けているはずの彼女がどんな動きをしようと、衣甲の搗合う音が全くしないのだ。
「そろそろ行きましょう、剣爵様」
「ああ、その前になクラウ、衣甲を脱いでみい」
「着けたまま出るのでは?」
「そうじゃが、よいから、一度脱いでみい」
言われるまま、クラウリーナは上下の衣甲を脱いだ。面板の隙間が不安そうにミラウを見ている。
「それで、もう一度素振りをやってみい」
「はい・・・」
頭甲の中では、きっと怪訝そうな表情をしているに違いない、クラウリーナはいつもの素振りを一通り行なった。
「か、軽い、なんて軽いの!」
自分でも信じられないくらい身体が動くことに、クラウリーナは思わず感嘆の声を上げた。
「決勝までは衣甲を着けていても充分勝てるが、決勝でもし適わぬと思ったときは、衣甲を脱ぐがよい」
「で、でもそれじゃ・・・」
「構わん、どうせ勝つのじゃからな」
不敵な笑みを浮かべて、ミラウは片目をつぶってみせた。
「最後にクラウ、一言言っておく。剣は力ではない。心じゃ。心がその腕を、その足を、その身体を動かす。故に、その心に少しでも迷いがあれば、剣を捨てよ。よいな」
「はい、剣爵様」
クラウリーナは、己に問うた。迷いはあるかと。この手から剣が離れるとき、答えは出る。
「いよいよね・・・」
妙な胸騒ぎがして、バルバロスは辺りを見回した。
「どうしたの? 父さん」
「い、いや、何でもない・・・。それよりサークス、クラウの様子はどうだった?」
「う、うん、ま、まだ頭が痛いって、うんうん唸ってた」
「やっぱり医者に連れてって診てもらったほうが」
「だ、大丈夫だよ、クライス兄さん。もう少し横になってればよくなるって言ってたから」
サークスは少し歩調を遅くして、隠れて冷汗を拭った。公営剣術道場へ至る道は、宮試の見物人で溢れていた。
「クライス兄さん、母さんはまだローリア姉さんのところ?」
「ああ、メリーナは元気だが、ローリアの容態が思わしくないらしい。・・・サークス、この事は宮試が終わるまでデュラスには内緒だぞ」
「わかってるよ、内緒事なら任せてよ」
「なんだお前、もっと他に内緒事でもあるのか」
父の鋭い突っ込みに、サークスはたじろいだ。
「ぼ、僕、先にデュラス兄さんのところに、い、行ってるよ」
「邪魔するんじゃないぞ」
サークスは、逃げるように走っていった。
「どうもあいつといい、剣爵様といい・・・」
「ん、どうしたクライス」
「い、いいえ、なんでも。・・・ねえ父さん、その仮面の剣士というのは、本当にそんなに凄いんですか?」
「ああ、実際にこの目で見たはずだが、なんだか夢のような気がしてな。とにかく、お前もその目で確かめるがいい」
デュラスは、雪辱戦に今までにない闘志を滾らせている。圧倒的な強さで予備予選を勝ち抜き、宮試出場枠十六の一つを勝ち取った。順当に行けばかの剣士との再戦も叶うだろう。
「仮面の剣士・・・、まさかな・・・」
クライスは、脳裏によぎる邪推をどうしても拭いきれなかった。しかしそれも、時がくればわかることだろう。会場に近づくにつれ、久しく忘れていた宮試の雰囲気に、クライスの魂が同調し始めた。
『ただいまより、本年度剣術宮試を開催致します』
剣術宮試実行委員長兼主審、コモン・ディーク剣尊ラスタス・コスワードにより開催が宣言された。一階席は観客で埋め尽くされ、割れんばかりの歓声が沸き起こっている。
「見せてもらおうか、この目で」
二階の南北道場正面に設けられた来賓席で、クライスは高ぶる気持ちを抑えていた。
『一回戦第一試合、北方、ゴーダ・ラグ。南方、・・・仮面の剣士』
その呼び出しの声に、場内は騒然となった。
「いきなりか」ミラウは、南方の来賓席で一笑した。
「・・・剣爵様、・・・剣爵様」
呼ぶ声に振り返ると、仕切りの下から顔が覗いていた。
「なんじゃ、サークスではないか」
ミラウは、扉を開けてサークスを来賓席に招き入れた。
「ご一緒させてください。みんなといるともう喋ってしまいそうで・・・」
「はっはっはっ、お前もか。わしもな、話しとうてうずうずしておるのじゃ」
背の高い間仕切りで囲われた来賓席に入り込むなり、サークスは手すりから身を乗り出して道場を眺めた。
「い、いきなり第一試合から? 大丈夫かな・・・」
「相手はコモン・ジュールの使い手、コモン・ブラウの敵ではないて」
ミラウは余裕の表情だが、相手は二階から見下ろしてもかなりの大男で、しかも携えている剣もその背丈ほどある。
「あ、あんなんで打たれたら潰れちゃうよ!」
宮試に用いる刀剣は、本身ではないにせよ鋳鉄で造られており、出場者には寸止めが厳しく言い渡されている。
「案ずるな。・・・まあ、木ではないから当たれば骨は砕けるな」
「で、でも・・・」
場内は、やはりまだ騒然としている。出場に際して装甲の是非は問われないものの、過去にこれほど重装した剣士は皆無であり、なおかつ素性を明かさないとなれば、揶揄されるのもやむを得ないだろう。
『捨剣を以て投了とする。双方、礼』
「さて・・・」ミラウは、自信満面に顎髭をさすった。
『始め!』
勝負は一瞬であった。大男が水平に長剣を振り終えると、その喉元に切っ先が突き付けられていた。長剣が、派手な音を立てて地面に落ちた。
『それまで! 勝者仮面の剣士!』
「あ、あれ、もう終わっちゃったの?」
サークスが、呆気にとられた様子でミラウを見た。
「うむ、確かに敵ではなかったが、あの長剣をあの速度で振り切るとはな。さすが攻撃力に関しては、コモン・ジュールは他流派の比ではないな・・・」
大男は、恭しく一礼して道場を去った。
「・・・クライス、見えたか?」
「・・・は、はい、微かに」
「わしもようやくだ。しかしあの大男、敗れはしたが腕は確かのようだな」
「恐らくシンラールの近衛軍辺りの者でしょう。コモン・ジュールの使い手でかなりの手練がいると聞き及んでいます」
北方の来賓席で、バルバロスとクライスは感慨に浸っていた。
「仮面の剣士・・・、まだこの程度で真価を問うのは早いでしょう」
「もちろんだ。デュラスには悪いが、わしはこちらのほうが楽しみだ」
端から見ればほんの一瞬の試合だったが、道場脇に控えたクラウリーナの息は頭甲の中で乱れていた。
(・・・危なかったあ、もう少しよけるのが遅かったら、真っ二つだったわ・・・)
それはクライスでさえ見逃していた光景であった。クラウリーナは、試合開始と同時に一旦前へ踏み込み、相手の剣をかわしてから突きを繰り出したのだった。
「よう、やるじゃねえか、仮面の剣士さんよ」
話し掛けてきたのは、第二試合に出場するために控えていた剣士だった。
「次のあんたの相手は俺だから、よーく見てなよ」
『一回戦第二試合、北方、ウィンストン・レイナード。南方、トーラス・スピリフィス』
槍を携えたその剣士は、しゃくれた顎をさすりながら立ち上がった。
「なあ、もし俺があんたに勝ったら、今晩付き合ってくれよ」
剣士はそう言った後、不思議そうな顔で首を傾げた。
「あれ、俺いつから男色家になったんだ? ま、いいや」
クラウリーナは、面板の隙間からその剣士を見た。
(・・・な、なんでばれてんの・・・?)
試合は、その剣士の言った通りになった。
『勝者、トーラス・スピリフィス!』
ミラウは、しゃくれ男の槍さばきを見て唸った。
「次はあやつか・・・。少々手強いかもしれん」
「なぜですか、剣爵様。あいつ相手の剣をかわしてばっかりじゃないですか」
「サークスよ、槍を使うあやつのコモン・ディークは言わば守備の剣じゃ。コモン・ブラウもどちらかに分ければ守備の剣に入る。そうなれば、槍の広い攻撃範囲が利点となる」
「そうか、槍をかいくぐって相手の懐に入らない限り、クラウに勝機はない・・・」
「じゃが、この程度で負けておっては到底優勝などできんわい」
「・・・出なくてよかった・・・」
一回戦は順当に消化し、デュラスの試合を残すのみとなった。
「さて、デュラスよ、初戦くらいは突破してくれよ」
バルバロスは、半ば祈るように道場を見つめた。
「あいつならやってくれるでしょう。大丈夫ですよ」
クライスの楽観は、相手剣士の風貌に吹き飛んだ。
『一回戦最終試合、北方、デュラス・エルレディア。南方、マハオ・ルンバダン』
異国人のような名前の剣士は、裾の端々がほつれたような鮮やかな原色の衣服を纏い、両手に小剣を携えていた。
「あ、あやつまさか、コモン・ルオを使うと?」
「コモン・ルオ、本物なら・・・」
コモン・ラシーヌ標準兵装であるところの右手に剣、左手に円形の盾を携えて道場に立つデュラスは、相手の瓢々とした風貌に闘志を滾らせていた。
『始め!』
掛け声と同時に踏み込んだデュラスは、盾を前に突き出しながら剣を斜め上へ振り上げた。
「な、なにっ!」
相手は剣も構えず、僅かに身体を反らしただけでデュラスの剣をかわした。
「な、なめるなよ!」
デュラスは、盾を投げ捨てて剣を振り上げた。
「盾を捨てるとはデュラス奴、もはや頭に血が上ったか」
バルバロスは、口惜しそうに膝を打った。
「クライス、あの異風な剣士の素性を知っておるか?」
「ヌーデトワールの予選を勝ち上がってきたと聞いてますが、それ以上は」
「・・・コモン・ルオ、後継している者がいるというのは単なる風評だと思っておったが」
クライスは、勝負の行方がわかってしまった自分にかぶりを振った。
「に、二の轍は踏まん!」
デュラスは、休むことなく攻め続けた。しかし四方八方から振り下ろされる剣を、相手はことごとくかわしていった。
「くっ、くそっ!」
デュラスは、一旦引いて間合いを取った。息が上がり始めたデュラスに対し、相手は静かに佇んでいる。
「本物じゃな、コモン・ルオ・・・」
「け、剣爵様!」
「サークスよ、悪いがこの試合デュラスに勝ち目はない」
「そ、そんな!」
サークスは、手すり一杯に身を乗り出して試合の行方を追った。
「デュラス兄さん!」
正面に剣を構えると、デュラスは深く呼吸した。
「・・・剣ではなく所作で太刀筋をかわすとは、しかし、いつまでそうしていられるかな!」
デュラスが再び攻撃に移ろうとしたときだった。相手がゆっくりと左右の小剣を構えた。
「く、来る!」
凄まじい勢いで突進してきたかと思うと、相手はデュラスに無数の剣を浴びせた。攻守逆となって、今度はデュラスが防戦になった。
「こ、これは・・・!」
しかし、その速度と勢いは、剣だけで受け流すには限界があった。左右から繰り出される剣は、瞬く間にデュラスの手元と喉元を捉えた。
「む、無念・・・」
デュラスは、剣を手から放した。
『それまで! 勝者マハオ・ルンバダン!』
父の祈りは、落胆へと変わった。
「しょ、初戦すら通らぬとは・・・」
クライスは、この勝負に納得していた。「・・・運も勝負のうち、とは思いたくないが」
『これにて一回戦終了、場内休憩と致します』
道場のデュラスは、剣と盾を拾うと、がっくりと肩を落として控えに下がった。
「・・・決勝は、奴と、・・・仮面の剣士・・・」
そこから先は、クライスも予想がつかなかった。
「うーむ、まだコモン・ルオの使い手がおるということか」
「あーあ」
サークスは、頭を掻きむしるように抱えると、疲れた様子でようやく席に座った。
「剣爵様、あんなのがいるんじゃ、到底クラウに勝ち目なんかないよ」
「そうじゃな、お前の言うこともまんざらではない。奴の使うコモン・ルオの祖は暗殺剣、命があるだけでもよしとせねば」
「そ、そんなあ!」
「しかも、あやつは柔剛の両方の剣を使いこなすようじゃ」
「柔剛?」
ヌーデトワールがその発祥とされているコモン・ルオは、戦後処理の一環として封印されたが、剣術伝播を旨とする政策により再び開放された。しかし、伝承者はごく僅かで、流派そのものの存続が危惧されていた。
「柔とはつまり、受けの剣、守りの剣じゃ。相手の繰り出す太刀筋を見極め、これをかわす。剛は対して押しの剣、攻めの剣じゃな。相手に隙を与えることなく攻め続ける。つまりコモン・ルオは、攻守に優れた最強の剣ということじゃ」
「そ、それじゃ、コモン・ブラウや他の流派も太刀打ちできないってこと?」
「いや、さしものコモン・ルオとて、弱点はある」
「弱点?」途端にサークスの顔が明るくなった。
「・・・ま、それはおいおい話すとしよう」
コモン・ルオの使い手が宮試に現われたことで、会場だけでなく勝ち残った控えの選手にも動揺が見られた。
「ちっ、これで決勝の一人は決まったようなもんだな」
「あんなのが相手じゃ勝てるわけねえよ」
「さっさと負けて家帰って飯でも食おうぜ」
愚痴りだす控え剣士の言葉を聞いて、しゃくれ男が立ち上がった。
「おい、てめえら、怖じけづいたんならさっさと帰っちまえ。てめえらみてえな魂の抜けた奴はかあちゃんの乳でも吸ってな、この腰抜け野郎共が」
「なんだと!」
いきり立つ剣士達を、革の頭甲を目深に被った老練の剣士が止めに入った。
「止めい! 神聖な宮試の場であるぞ。双方慎みなされ」
剣士達は、口惜しそうに戻っていった。しゃくれ男も、ばつが悪そうに愛想笑いを浮かべながら着座した。
「す、すまねえな、つい口が過ぎちまったようだ」
「・・・確かに、貴殿の申される通り、彼らのような腑抜けは剣を持つ資格などないが、雌雄はこの道場で決するもの、それを心得ていただきたい」
「わ、わかった」
老練の剣士は、自分の場所に戻って静かに着座した。
(・・・すごいわ、あの人の気。かなりの使い手ね・・・)
『それでは第二回戦を行ないます。第一試合、北方、トーラス・スピリフィス。南方、仮面の剣士』
しゃくれ男は、槍をくるくると回しながら道場に上がった。
「さて、お手並み拝見といくか、お嬢さ・・・、あれ、どうもおかしいな」
(・・・なんかやりにくいのよね・・・)
『始め!』
しゃくれ男の初手は、いきなりクラウリーナの肩をかすめた。
「は、速い!」ミラウは、思わず声を上げた。「あやつ、風采は冴えぬがなかなかの腕じゃな」
クラウリーナは、一先ず間合いを取った。
(・・・や、やるじゃない・・・)
「へっへっへっ、よくかわしたな、胸を狙ったつもりだったが」
しゃくれ男は、まるで挑発するかのように槍を頭上でくるくると回した。
「コモン・ディークが攻めの剣を、うまく行けば勝機はあるか・・・」
クライスは、固唾を飲んで勝負の行方を見守っている。
「クライス、わしはデュラスのところへ行ってくるが」
バルバロスは、もう仮面の剣士のことなどどうでもよかった。恐らくデュラス以上に落胆しているに違いない。
「はい、では私はここにいます」
道場の熱戦などまるで目に入らないかのように、心ここにあらずといった感じで、バルバロスは来賓席を後にした。
「・・・あの槍の中に入らなければ、仮面の剣士に勝機はない・・・」
そんな父を振り返りもせず、クライスは、仮面の剣士を応援している自分にまだ気づいていなかった。
(・・・あれをかわして中に入らないと・・・)
「どうした、攻め手がないんならこっちから行くぜ。コモン・ディークは守るだけが能じゃないってことを」しゃくれ男は、槍の切っ先を真っすぐ向けた。「見せてやる!」
クラウリーナは、防戦一方だった。剣が届かないことには、攻撃のしようがない。
(・・・でも・・・行ける!)
装甲しているにもかかわらず、素早く突き出される槍先をかわしている身体が軽いことに、クラウリーナは気付いた。
「いつまでそうしていられるかな!」
しゃくれ男は、今まで以上に深く槍を突き出した。
(今だっ!)
クラウリーナは、脇腹をかすめた槍を抱え込むと、槍の柄に沿って身体を翻した。
「な、なにいっ?」
首筋に冷たい感触を覚えて、しゃくれ男は槍を落とした。
『それまで! 勝者、仮面の剣士!』
ミラウは、膝を叩いて感嘆の声を上げた。
「見事じゃクラウ。誠鮮やかな一手であった、うむ」
『双方、剣を引かれよ』
主審が声を掛けても、二人は勝負が決まった姿勢のままで息を弾ませていた。
「まいったな、あんたよっぽど・・・」
しゃくれ男は、何かに気づいたように口を力なく開けてから、にやりと笑みを浮かべた。
「・・・また、会おうぜ。・・・お嬢さん」
耳元でそう囁かれ、クラウリーナは弾けるように体を離した。
(・・・ば、ばれてる・・・)
「あーあ、なんて強え野郎だ」
悪態をつきながら、しゃくれ男は道場を去った。
「結構あっさり勝負着きましたね、剣爵様」
「さては勝ちを焦ったな、あの男。それでもまあ、奴の腕前はかなりのものじゃ」
サークスは、試合を見る度に自分に剣術が向いていないことを思い知らされていた。
「あ、次の試合だ」
今日は一観客として楽しもうと決め、サークスはまた手すりから身を乗り出した。
「ん?」
サークスの横に、ミラウが席を立って同じように身を乗り出した。
「ど、どうかしましたか?」
「先刻からもしやとは思っていたがあの男・・・」
南方の控えから道場に向かう一人の剣士に、ミラウの視線は注がれていた。
『第二試合、北方、ラグナセカ・フェデックス。南方、イルモア・クリーブランド』
「間違いない、ラザン・マッカード。何故こんなところに・・・」
ミラウがそう呼んだ老練の剣士は、静かに道場に立った。
「剣爵様、呼び出しはイルモア・クリなんとかって言いましたけど」
「偽名を使ってまで宮試に、何故じゃ・・・」
「ご存じなんですか?」
ミラウは、神妙な面持ちで席に戻った。
「・・・軍の剣術幕僚長だったが、一身上の都合とかで退役した。・・・いや、させられたのじゃ」
サークスは、今までと違うミラウの様子に戸惑った。
「剣術幕僚長だったんなら、腕前は・・・」
「・・・ということは、クラウの次の相手は・・・」
『始め!』
「・・・あやつか・・・」
『それまで! 勝者、イルモア・クリーブランド!』
「ええっ! もう終わり?」
サークスは、慌てて道場を見た。道場で跪く敗者を見向きもせず、老練の剣士は控えに戻った。
「・・・わしが企てた以上に、とんでもない宮試になってきおったな・・・」
老練の剣士は、クラウリーナの隣に座った。
(・・・無駄な動きが全然ない。完璧だわ・・・)
クラウリーナは、老練の剣士の鮮やかな剣さばきに感銘していた。
「次はそなたとだな。よろしくお願い致す」
突然話し掛けられ、クラウリーナはぎこちなく頭を下げた。
「無論私は勝つために来ているのだが、もし私が負けるようなことがあれば・・・」老練の剣士は、目深に被っていた頭甲を僅かに上げた。「そなたの名を教えてはくれまいか」
クラウリーナは、しばらく考えた後にしっかりと頷いた。
「かたじけない」
(・・・いいわよね、それくらい。父さんにばれなきゃいいんだから・・・)
バルバロスが、浮かない顔をして来賓席に戻ってきた。
「どうでした、デュラスの奴」
「ああ、ローリアの処へ行かせたよ。クラウのこともあるから、母さんに帰ってきてもらったほうが」
「そうですね」
デュラス以上に、父のほうが落ち込んでいるようにクライスには見えた。
『第三試合を行ないます』
「よう、相棒」
「早い、もう負けたか」
「お前だって、初っぱなで負けたじゃねえか」
「彼女、強い」
「やっぱりそうか、お前の言った通りだったな。で、どうする?」
「我、この地で待つ」
「まだ待つのかよ?」
「時は来ていない。それまで待つ」
「でもまあ、半年待ったんだから、もうちょっとくらい待つか」
「ルラルの神が我を呼ぶ。剣を操る女子に仕えよと・・・」
「わかったわかった、それよりどっかで飯食おうぜ」
「我を呼ぶ・・・」
しゃくれ男と大男は、肩を並べてまだ陽の高い新市街へ消えていった。
「いよいよ準決勝か・・・」
ミラウの顔に、もはや余裕はなかった。
「剣爵様、そんなに強いんですか、次の相手」
『ただいまより準決勝第一試合を行ないます』
ミラウは、道場を射るように見つめた。
「・・・わしが生涯でただ一度、不覚を取ったのが奴じゃ」
「け、剣爵様が不覚を?」
『北方、仮面の剣士。南方、イルモア・クリーブランド』
「・・・あのラザン・マッカードにな」
呼び出された二人の剣士は、道場で対峙した。
「・・・クラウリーナ、適わぬなら、遠慮なく衣甲を脱げよ」
『捨剣を以て投了とする。そ、双方、礼』
主審のコスワードさえ、二人の気迫に薄らと額に汗していた。
「ほう、奴め、盾を持ちおったか」
ミラウがマッカードと呼んだその老練の剣士の左手には、鈍く光る円形の盾があった。
「ほんとだ、今までの試合は持ってなかったのに」
「コモン・ラシーヌの極意は、均整のとれた攻守の技。どちらが欠けても真価は発揮できん。覚悟せいよ、クラウ。奴は本気じゃ・・・」
(・・・す、凄い気だわ。足が前に出ない・・・)
「・・・手加減はすまいぞ、仮面の剣士よ。この私を見事討ち取ってくれい・・・」
『始め!』
コスワード主審は、満ちる気迫に弾かれるように道場の端へ下がった。
「どうやら、仮面の剣士もこれまでのようだな」
主審が声を掛けてから一向に微動だにしない二人を見て、バルバロスが呟いた。
「力は五分、となれば装甲している方が不利となる。・・・しかし」
「ん? クライス、仮面の剣士に歩があるとでも?」
クライスの視線は、道場の様子に釘付けになっていた。
「・・・確かに、二人とも気迫に満ちていますが、どうもあの老練の剣士には、闘気が感じられないのです」
「闘気?」
「ええ、相手を倒して勝ち残ろうという闘気が・・・」
バルバロスは、ようやく身を乗り出して道場を見遣った。
「・・・むしろ、何か優しく見守っているような、そんな感じが・・・」
依然として二人は対峙したまま、微動だにしない。
「先刻はあんなに早く終わったのに」
サークスは、せわしく足を踏みしだいている。
「安心せい、互いに手を出せぬということは、それほど力が拮抗しているということじゃ」
「じゃクラウは勝てるんですか?」
「・・・それはわしにもわからん」
道場の二人は剣を構えたまま、相手の出方を探っていた。
(・・・一分の隙もないわ。仕掛けても返されるのが落ちね・・・)
「・・・うむ、ここまでとはな、ミラウ様も素晴らしい後継者を見定められたものだ。・・・どれ、仕掛けてみるか・・・」
僅かに軸足に力が入ったのを、クラウリーナは見逃さなかった。けたたましいほど甲高い音が、場内に響いた。
(・・・な、なんて重い剣なの!)
辛うじて相手の剣を弾き返したクラウリーナは、基本的な体力の違いを痛感した。
「・・・ほう、なんと柔軟な下半身だ。この強撃で崩れんとは」
しかし、クラウリーナの足首は僅かに震えていた。
(・・・も、もう一度同じのを食らったら・・・)
ミラウは、拳を掌に打ち付けて立ち上がった。
「ええい、まともに剣を合わせて勝てる相手ではない!」
「け、剣爵様・・・」
「片手とはいえ、奴の剣は盾をも砕くのだぞ!」
サークスは、稽古中でも見たことがないミラウの形相に驚いた。
(・・・で、でも、そう容易くかわせる太刀筋でもないし、一体どうすれば・・・)
老練の剣士は、相変わらず静かに佇んで構えている。目深に被った頭甲から垣間見える眼光は、恐ろしいまでに鋭く突き刺さってくる。
「・・・仮面の剣士よ、このわしを倒してその名を聞かせてくれ。さもないと・・・」
また軸足が動いた。クラウリーナは剣を握り締めた。
(・・・やってみる!)
身体のほうが逸早く反応した。相手が踏み込んでくる前に、クラウリーナは剣を突き出した。
(・・・あっ!)
鈍い音と共に、クラウリーナの剣は盾で弾き返された。
「け、剣爵様!」
「何という男だ、齢を重ねて体力に衰えがないどころか、技も動きも恐ろしいほど切れがある」
「このままじゃ勝てないよ!」
サークスの悲鳴にも似た言葉が響いた。
「あの盾を破れればあるいは・・・、しかし、クラウにそこまで・・・。何より、あのラザンがそれを許すはずが・・・、勝てぬのか、クラウよ!」
(・・・どうすれば!)
クラウリーナは、仮面の中で唇を噛みしめた。片手とはいえ強烈で俊敏な剣、あらゆる太刀筋を悉くかわす盾。どちらかを封じなければ、勝ち目はなかった。
「・・・どうしたのだ、仮面の剣士。これで投了という訳ではあるまい。私をがっかりさせないでくれ」
老練の剣士はゆっくりと盾を前に出し、剣を身体の横で構えた。
(・・・あの盾を、・・・やってみる、やってみるわ)
「参るぞ!」
相手が踏み込んでくるのが見えた。クラウリーナは、剣に意識を集中させた。
(・・・く、来る!)
クラウリーナは、身を屈めて真っすぐ突っ込んでいった。凄まじい勢いで、二人は道場の真ん中で搗合った。
場内の静寂が深くなった。コスワード主審は、老練の剣士の頬をかすめている剣先を凝視していた。
「・・・ば、馬鹿な!」
クラウリーナの剣は、盾を貫いていた。
「白錬銅の盾を貫いたというのか!」
老練の剣士は、振り上げていた剣を落とした。
『それまで! 勝者、仮面の剣士!』
クラウリーナは、仮面の下でようやく息を吐き出した。集中力が一気に萎え、貫いている盾ごと剣が震えだした。
「・・・や、やった・・・やったー!」
サークスの叫びに呼応して、場内からも歓声が沸き起こった。
「あいつめ、ブラウ・セーブルを・・・、冷や冷やさせおるわい・・・」
ミラウは、倒れ込むように席に座った。
(・・・あ、あたし、勝ったの・・・)
クラウリーナは、震える手で盾を貫いている剣を抜き取った。
「完敗だ、お嬢さん」
「え?」
クラウリーナは、思わず声に出してしまった。
「約束だ、そなたの名を聞かせてくれ」
老練の剣士は、優しく微笑んでいた。先程まで剣を交えていたとは思えないくらい、その表情は穏やかだった。
「・・・ク、クラウリーナ・エルレディア・・・です・・・」
「クラウリーナ・・・、よい名だ。私は、ラザン・マッカード。またいずれどこかで会うこともあるだろう。憶えておいていただけると、嬉しいのだが」
老練の剣士は、貫かれた盾をしげしげと見つめながら、ゆっくりと控えに戻った。
(・・・ラザン・マッカード・・・、いずれどこかで会う?・・・)
限界まで集中力を発揮して繰り出したブラウ・セーブルに、クラウリーナは少しふらつきながら控えに戻った。
「・・・クライス、・・・どうもわしは歳を取り過ぎてしまったようだ」
「・・・そうですか、私もです」
親子は、互いに顔を見合わせた。
「果たして決勝まで我等の目がついていけるかどうか」
「ですが、どうしてもこの試合を見なければいけないような、そんな気がするのです・・・」
目頭を指で押さえていたバルバロスは、微笑んで頷いた。
『それまで! 勝者、マハオ・ルンバダン!』
決勝戦は、クラウリーナとこの剣士の戦いとなった。
「す、すごい、また一瞬のうちに・・・、ねえ剣爵様、クラウはあいつに・・・」
ミラウの姿は、席にはなかった。
「待たれい」
陽はもうかなり傾いて、ミラウを照らす光も赤みを帯びていた。会場の歓声は、夕暮れの街を震わせていた。
「・・・これは、ジュゼ・ミラウ剣爵様で」
「先程の試合見せてもろうた。イルモア・クリーブランド、いや、ラザン・マッカード」
老練の剣士は、口許を綻せて革の頭甲を脱いだ。
「見え透いた偽装などと、お恥ずかしい限りで」
「別に構わん。貴殿にもいろいろ事情がおありじゃろう」
マッカードは、改めて頭を下げた。革製の衣甲の上からも、鍛え抜かれた身体が隆々としている。白い頭髪を後ろに撫で付け、柔和な顔立ちの中にも一抹の鋭さが垣間見える。
「マッカードよ、これは古い友人としてごく自然な質問じゃ。何故名を秘してまで宮試に出場する必要があったのだ」
「は、・・・いずれ改めてご挨拶にお伺いするつもりでしたが」
マッカードは、静かにミラウに歩み寄った。
「・・・連邦政府に不穏な動きがあるのはご存じで?」
「連邦政府?」
「病床の陛下に代わって、連邦の覇権を手中にしようという動きです。現に侍従長であるルワン・ダイストー殿の行方も・・・」
「ダイストー殿なら・・・、その心中察して余りあろう」
「ま、まさか、陛下の御身に・・・」
「・・・イシク王は、・・・崩御なされた」
「なんと! そ、それではダイストー殿はもしや、・・・急がねばなりませぬ」
「何を急ぐのだ、マッカード。おぬしが、剣術幕僚長を追われたおぬしが、この期に何を急ぐのじゃ」
マッカードの角ばった目が、真っすぐミラウを見た。
「連邦政府は、陛下が水面下でいろいろと画策なされていることを既に察知しています。私が剣術幕僚長の任を解かれたのもそのためです」
「イシク王は、ジュラスは何をしようとしておるのだ?」
「・・・私は、陛下の特命により、ゴルドレックの新たな指導者を捜しているのです」
「新たな指導者とな?」
「世継に恵まれなかった陛下は、ご自分が亡くなられた後の世の混乱を案じておられました。連邦政府高官の暗躍も察しておられ、なんとか手を打とうとしておられたのです。そこで陛下は、新しい時代の連邦を束ねるのは、新しい五剣爵だと」
「新しい五剣爵? それが、新しい指導者たりえると?」
「民衆を導くのは力です。力、それは即ち剣。しかし正しい方向に導くには、正しい力を見極めることが必要なのです。そしてそれは、我々老いた世代の果たすべき責任なのです」
「果たすべき責任・・・、重い言葉よのう、マッカード」
「陛下が崩御されたとあっては、急がねばなりません。既に連邦軍務局は、連邦軍の設立を提案しております。それが今度の連邦議会で承認されれば、軍部の文民統制は崩壊し、連邦政府は絶大な権力を得るでしょう。そうなる前に・・・」
「・・・ジュラスは、わしに何も告げずに逝ってしまった。老い先短い者は口を出すなと言わんばかりにな。一人残った剣爵として、わしも何かすべきとは思っておったが、剣以外のことなるとこの老いた頭には何も浮かばん。何ができるかわからんが、わしも最後の剣爵として力添えをしよう」
「心強いお言葉、ありがとうございます」
夕日に照らされるその後ろ姿を見送って、ミラウは剣術道場を振り返った。
「クラウリーナよ、・・・この世界の未来は、お前のその剣にかかっている。・・・頼むぞ」
「さて・・・」
剣術道場の事務所に隣接した控え室で、一人の剣士が支度をしていた。
「決勝くらいは、見せていただけるのかな?」
事務員は、辺りを警戒しながら事務所に案内した。
「特等席ですね、ここは」
剣士は、装甲した身体で注意深く椅子へ座った。会場の最上段から見下ろす光景に、計らずも胸が高鳴った。
「どれ、見せてもらうぞ、仮面の剣士」
会場の興奮は最高潮に達していた。主審が道場の真ん中に立った。
『これより、決勝戦を執り行います!』
来賓室の扉が開いて、バルバロスは反射的に振り向いた。
「残念だな、デュラスは・・・、なんだお前か」
扉に手を掛けたまま、レイラーナが不安そうに中を覗きこんでいた。
「あら、クラウリーナは来てないの?」
「いや、まだ来てないぞ。もう決勝戦だから、来るなら急いだほうが」
「部屋にいないのよ」
「えっ?」その言葉にクライスも振り向いた。
「デュラスから部屋で寝てるって聞いたから部屋に行ったら、もぬけのからなのよ」
「あいつ、仮病を使いおったか!」
「ちょっと、行ってきます」
「クライスどこへ行く、決勝が始まるぞ」
「母さんもここで見てて、決勝戦」
レイラーナを席に座らせると、クライスは来賓席を出ていった。
「やっぱり・・・、あいつが」
クライスの考えは、やがて確信に変わっていった。怒号と歓声が渦巻く客席の間を抜けて、クライスは南方へ回った。
「失礼します、剣爵様」
「げっ! ク、クライス兄さん!」
サークスは、身体を縮ませて席に戻った。
「・・・おう、クライス坊か。どうした?」
ミラウは、じっと道場を見据えたままで話した。
「剣爵様、あの仮面の剣士の正体、もしかして・・・」
「無粋な兄よのう、黙って試合を見よ」
ミラウは、それ以上答えそうになかった。クライスは、すっかり恐縮しているサークスを一瞥して席に座った。
『北方、マハオ・ルンバダン。南方、仮面の剣士』
(・・・いよいよね・・・)
クラウリーナの衣甲は、もはや身体の一部となりつつあった。
(・・・ここまで来たら、もう勝つしかないわ。父さん、見てるかな・・・)
『もし、双方見合いが続いた場合は水入りとし、休憩の後に再開する』
道場の中央に進み出た二人は、一礼して剣を構えた。
『始め!』
その声が会場にこだましないうちに、相手はクラウリーナの眼前へ突進していた。
(・・・は、速い!)
無数の剣がクラウリーナを襲った。身体をかわすだけでは防ぎ切れず、剣の弾け合う音が何度も耳を擘裂した。
「や、やはりな、奴め短期決戦に持ち込む気じゃ」
「け、剣爵様! やられちゃうよ!」
「サークス、コモン・ルオの弱点はな・・・」
「僕にじゃなくて!」サークスは、言い淀んで道場を指差した。
「・・・コモン・ルオは、その高い機動性を活かした、絶大な攻撃力と守備力を備えている。だがそれは同時に、剣士の体力をほぼ限界まで消費してしまう。つまり、初手の攻撃を乗り切りさえすれば、勝機はある」
「うむ、そういうことじゃ」
「しかし・・・」
クライスは、口を真一文字に結んで、膝に置いた拳を握り締めた。
「例え攻撃を凌いだとしても、恐らく双方共に体力は残っていないじゃろう・・・」
相手は、微妙に間合いを変えながら両の剣を振り下ろし続けていたが、クラウリーナは辛うじてその動きに付いていった。
(・・・だ、だめ、これじゃ攻撃に移れない!)
一際大きく剣が弾かれて、相手は後ろへ下がって間合いを取った。
(・・・う、腕が上がらないわ・・・)
クラウリーナは、剣を構えた姿勢のまま、それ以上動くことができなかった。息は大きく乱れ、肩が大きく上下している。
(・・・今攻撃を受けたら、もう何もできない!)
しかし、それは相手も同様だった。両手の小剣を構えてはいるが、口を大きく開けたまま、その荒い息遣いまで聞こえてきていた。会場は水を打ったように静まり返り、観衆は固唾を飲んで勝負の行方を見守っている。
『それまで!』
主審が二人の間に割って入った。
『水入りとする! 両者控えへ!』
互いはその声が掛かっても、しばらく緊張を解けないでいた。係員が介添をして、ようやく二人とも控えに下がった。観衆から、大歓声と拍手が沸き起こった。
「よく・・・、よくあの攻撃をかわし続けたものだ・・・」
隣のレイラーナは、その迫力に口を押さえて絶句している。バルバロスも、それ以上言葉がなかった。
「・・・この勝負勝てん」
そう言い切ったミラウに、サークスは驚愕の眼差しを注いだ。
「そ、そんな!」
「例え再開したところで、また同じことの繰り返しじゃ。負けはせんが、勝てもせん」
サークスは、気が抜けてその場に座り込んだ。
「いいえ剣爵様、攻められないのであれば、仮面の剣士はやがて力尽きて相手の剣を受けるでしょう」
「・・・そうじゃな。攻めに転じなければ、永遠に勝ちなど来んわい」
「剣爵様、水入り中の助言は許可されておりますね?」
「ああ、試合前と水入り中は・・・」
クライスの姿は、振り向いたミラウには見えなかった。
「・・・どこまでも無粋な兄よのう・・・」
相手の圧倒的な力に、クラウリーナは消沈していた。今の勝負互角とはいえ、再開しても同じことを繰り返すのが精一杯だろう。漠然と、クラウリーナは負けを覚悟した。
(・・・父さん、見てるんだろうな・・・)
「仮面の剣士よ!」
それは聞き慣れた声だった。
「聞く耳があれば聞いて欲しい!」
クラウリーナは、面板の隙間から声の主を探した。
(・・・クライス兄さん?)
道場の脇、主審が注視している傍らに、兄の姿があった。
「迷いは全て捨てよ、されば道は開かれん。剣は己を創るもの、己のために勝て!」
観衆の騒きの中で、それははっきりとクラウリーナの耳に届いた。
(・・・ありがとう、・・・ごめんなさい、クライス兄さん・・・)
『水入りはこれまで、双方道場へ!』
主審に促されて、クライスは客席へ戻った。
「・・・勝て、クラウ」
声が届いたかどうかはわからない。だがもし、仮面の剣士がクラウリーナであるなら、声は届かずとも思いは届いたはずだ。
『この一戦で決着せぬときは、双方を優勝と・・・』
主審の目は、いや、この会場の全ての目は仮面の剣士の妙な動きに釘付けになった。
(・・・父さん、不束な娘だけど、あたしは父さんと母さんの娘なの。エルレディア家に生まれた娘なの!)
道場の脇に、抜け殻のようにうち捨てられた衣甲が転がった。会場は、驚愕とも悲鳴ともつかぬ怒号に包まれた。
「あ、あなた!」
「・・・そ、そんな・・・、そんなことが!」
レイラーナは両手で顔を覆い、バルバロスは仁王立ちで道場を見た。
「け、剣爵様! あ、あいつ?」
「・・・それでよい、クラウよ。思う存分戦うがよい・・・」
ミラウは、立ち上がると来賓席を後にした。
「・・・ふう・・・」
ひんやりとした空気が、クラウリーナの腕を、足を、頬を、髪を擦り抜けていく。しかしそれは、すぐに熱い風に変わった。
『け、決勝戦、再戦を行ないます。北方、マハオ・ルンバダン』
コスワードには、宮試の試合規定と目の前の状況を照らし合わせる時間などなかった。そんな余裕さえ奪われるほど、目の前の出来事は信じ難いものだった。
『南方、か、仮面の剣士改め・・・』
「剣爵ジュゼ・ミラウ門下生、クラウリーナ・エルレディア!」
ぎこちなく頷く主審に、クラウリーナは微笑みをくれた。
『始め!』
クラウリーナの身体は、渦巻く熱い風の中を疾駆した。その刹那、相手の驚愕した顔が、延ばした腕の先にあった。
「・・・勝ったか、クラウよ」
「私も、衣甲を脱がせていただいてよろしいですか?」
いつまでも響く歓声の中で、ミラウは苦笑いを浮かべた。
「恐れながら今の動き、この私には朧げにしか見えませんでした。それに・・・」
「よいよい、言い訳せずともよい。このわしですらさほど見えなんだわい。じゃが、面だけは外すでない。おぬしとわかっては、相手も戦い辛いじゃろうからな」
ミラウともう一人の仮面の剣士は、歓声渦巻く道場を見下ろした。
『勝者、クラウリーナ・エルレディア!』
クラウリーナは高々と手を挙げ、四方を向いて歓声に答えた。
「・・・サークス、お前いつから知ってた?」
「ずっと前から知ってたよ」
もうこれでびくびくすることもない。サークスは堂々と答えた。
「ずっと前とは?」
「あいつがままごとや人形で遊んでいるところ、クライス兄さん見たことある?」
クライスは、心の奥底で実は知っていたのかも知れなかった。ただ習慣や先入観がそれを否定し、心の中で虚像を造り上げてしまったのだろう。
「父さんのところに行こう。驚いているに違いない」
ミラウがいないことが気にかかったが、二人は北方の来賓席へ向かった。
「・・・勝ったわ、勝ったのね」
観客の拍手は、当たり前のように勝利者を称えていた。五十年近くに渡る剣術宮試の歴史で、初めて女性剣士が優勝したのだ。
「・・・そう、当たり前のことなのだ。強いものが勝つ・・・、例えそれが子供だろうと、女だろうと」
「でもあなた・・・」
「見なさいレイラーナ、あいつのすがすがしい顔を。今まで私達にあんな顔を見せたことがあるか」
鳴り止まない拍手が嬉しいのも確かだが、これでこそこそ隠れる必要がなくなったことが、クラウリーナは何より嬉しかった。
「父さん、許してくれるかな・・・」
主審がクラウリーナに近づき、何やら言付けた。
「入室典儀?」
剣術優勝者を剣将の位に定める意味で、かつての優勝者や高位剣士と一戦交えるという儀式である。剣を振る力はもうほとんど残っていなかったが、あくまでも儀式ということなので、クラウリーナは即時開始を引き受けた。
『引き続き、入室典儀を執り行います』
観客の興奮は容易に冷めず、ざわついた中で儀式が始まった。儀式と言っても別段準備があるわけでなく、クラウリーナにとっては試合の延長みたいなものだった。
『剣士入場!』
クラウリーナは、そのまま道場で相手の入場を待った。
「あれは・・・?」
ざわついていた客から、またどよめきが起こった。控えに現われた剣士は、頭甲を被り面を施していた。
「また仮面の剣士とは」
クライスが、サークスを連れて北方の来賓席に戻ってきた。バルバロスは、複雑な笑みを向けた。
「これでクラウリーナも、立派に剣士として認められるというものだな」
クライスは、父のその言葉を感慨深く受けとめた。
「あれ、誰だろう。面なんか被って・・・」
サークスの呟きを、皆はただ聞き流していた。
『試合時間は十分とし、最後に宮試優勝者の剣礼をもって本典儀を終了する』
道場には、既に対戦する二人が上がっていた。
「あのう、剣礼って?」
「一本取らせてもらいなさい。この入室典儀が終われば、あなたも剣将として認められます」
コスワード主審は、厳しい顔を綻せてクラウリーナに答えた。
「剣将、あたしが・・・」
大きく頷いたあと、コスワードはまた主審に戻った。
『双方、過度の攻勢はこれを慎むように』
仮面を付けた相手を、クラウリーナはさほど気に留めていなかった。肩の荷はもうすっかり下りていたからだ。
(・・・要するに、本気になるなということね・・・)
『北方、クラウリーナ・エルレディア。南方、仮面の剣士』
相手は、クラウリーナと同じ細身の剣を持っていた。
(・・・コモン・ブラウかしら。ま、なんでもいいけど・・・)
『双方、礼!』
一礼した後、構える前に剣を握った手を顔の前に持ってくる所作は、紛れもなくコモン・ブラウの作法の一つだった。
『始め!』
相手は、掛け声と同時に軽く攻め入ってきた。クラウリーナは相手に合わせて剣を交えた。
(・・・昔はよくこうやって遊び半分でやってたっけ・・・)
昔を思い出すクラウリーナを知ってか知らずか、相手はコモン・ブラウの基本技を出してきた。
(・・・そうそう、これがなかなかできなくて・・・)
楽しみ始めたクラウリーナだったが、相手の剣は次第に速さを増してきた。
「うっ!」
それはほんの悪戯かもしれなかったが、頬をかすめたその剣は、クラウリーナの闘気に火を付けた。まだ決勝戦の興奮が冷め切っていないクラウリーナが、本気になるまでそう時間はかからなかった。
「・・・奴め、悪戯が過ぎるわい」
気持ちはわからないわけではなかったが、安易な挑発をミラウは案じていた。だが、事態はミラウの憂慮する方向へ進んでいった。
激しく剣を合わせる音が響き、二人の動きはその速さを増していった。クラウリーナの顔から微笑みは消え、前にも増してその動きは軽やかだった。
(・・・本気にさせたわね・・・)
クラウリーナは、過度の攻勢は慎めという主審の言葉も忘れて、一撃の機会を窺っていた。しかし、相手の方が一瞬早かった。素早く振り上げられた剣が、クラウリーナの小手先を僅かにかすめた。
「ま、まずいぞ」
端で見ていたミラウは、いたたまれず道場の主審のところへ駆け寄った。
「コスワード、すぐに二人を止めるのじゃ」
「ですが、まだ剣礼が」
道場の異様な雰囲気に、会場も静まり返っていた。
「あいつら本気になっておる。このままでは・・・」
道場を一瞥したミラウは、思わず息を飲んだ。
「な・・・、なんと!」
剣を振り動かすクラウリーナの目が、薄らと赤く光を放っていた。
(・・・ま、まさか、赤眼光!)
闘気が限界にまで達したとき、剣士の五感は通常より数倍も鋭敏になる。特に視覚は著しく発達し、あらゆるものが静止して見えるという。その時、端から見た剣士の目は、薄らと赤みを帯びて光る。赤眼光は、全ての剣術流派に共通する最大最高の究極奥義であった。
『そ、それまで!』
仮面の剣士は、初めて自分の額に剣が突き付けられていることを知った。
(・・・み、見えなかった、この俺が・・・)
『こ、これにて、入室典儀を終了致します!』
主審の言葉に、クラウリーナは我に返った。
「あれ? 終わっちゃった」
「・・・強くなったな、クラウリーナ」
「え?」
クラウリーナは、相手に突き付けていた剣を慌てて引っ込めて、後ろに下がった。
「あたしを知っているの?」
仮面の剣士は、剣をしまうとその仮面を取った。
「昔とはえらい違いだよ。こんなに強くなって」
「う、嘘・・・?」
仮面の下から現われたのは、紛れもなくスコットの顔だった。
『南方は、第四十三回剣術宮試優勝者、連邦政務官スコット・クリスレード剣将でした。皆様大きな拍手を!』
スコットは、手を振って観衆に応えた。
「クラウリーナ、黙っててすまなかっ・・・」
握手を求めようとしたスコットは、クラウリーナの目に涙が溢れているのに気付いた。
「どうした?」
クラウリーナは、持っていた剣を放り出して道場から走り去っていった。
「クラウリーナ!」
スコットは追いかけようとしたが、余りの体力の消耗に走りだすことができなかった。
「お、おい、どこへ行くんじゃ、表彰式がまだ・・・」
ミラウの制止を振り切って、クラウリーナは外へ飛び出した。
「そんな・・・、そんなこと、あたし・・・」
陽は沈み、名残を惜しむように空の端を染めている。
「・・・あの人に、剣を向けた、・・・あたしが・・・」
震える手を握り締め、クラウリーナはその場に泣き崩れた。
「・・・この、手で・・・」
言い知れぬ罪悪感は、やがてクラウリーナの身体を蝕んでいった。
バルバロスの落胆した表情を見れば、クラウリーナがまだ二階の部屋に戻っていないことは、居間に集まっている面々には容易に想像できた。
「どこ行ったのかしら・・・」
「座りなさい、落ち着かんではないか」
暖炉の側で逡巡するレイラーナに、バルバロスが一喝した。
「・・・バルバロス殿、責任は全てこのジュゼ・ミラウにある。皆を欺くつもりはなかったのじゃが、結果的にそうなってしまった」
「いいえ、剣爵様、私どもがもっと娘のことを理解しておれば、娘のことは全て親の責任にございます故、どうかお気になさらぬよう」
「全く、心苦しい限りじゃ・・・、しかしあれほど宮試の優勝を望んでおったものを、一体どうしたというのじゃろうか」
「娘は、女である自分が剣を持つことを咎められるのを恐れ、宮試で優勝して納得させようとしたのですね」
「左様、宮試で勝てば、さしもの貴殿も折れるであろうとな」
「確かに、未だ娘が剣を持つことを驚いてはいますが、あれほどの腕とは・・・」
「わしはな、バルバロス殿、・・・クラウリーナに剣爵位を譲るつもりでおったのじゃ」
「い、今なんとおっしゃいました?」
「クラウリーナに、我がコモン・ブラウを継がせようと思っておる」
夫婦は、顔を見合わせて大層驚いた。
「それほどの資質を、あやつは持っておるのじゃ」
「け、剣爵様、・・・こ、言葉がございません、何と申し上げればよいのやら・・・」
「じゃから、もし貴殿が反対されても、わしは是が非でも剣を続けさせたいと思っておった」
「は、反対などと、これほどの光栄は他にありませぬ。我が娘ながら、それほどの資質を見抜けぬとは・・・」
「しかし、それもクラウリーナ自身が剣を続けるというのが条件、本人が嫌がるものをむりやり押しつけるわけにはいかん」
「それにしてもなぜ急に、娘は私と反目することを覚悟していたはず」
「・・・恐れながら剣爵様」
俯いていたレイラーナが顔を上げた。
「レイラーナ殿、何か心当りが?」
「クラウリーナが最後に戦った相手は、スコット様なのですね?」
「そうじゃ。クラウリーナの入室典儀に最もふさわしいと、わしが頼んだのじゃ」
「もしかすると、そのことかも知れません」
ミラウは、訝ってレイラーナを見た。
「何を言うのだレイラーナ。スコットが何かしたわけでもあるまい。確かに、クラウはスコットと戦った直後に飛び出していったが、それがどう関係あるのだ?」
バルバロスは、レイラーナに詰め寄るように身を乗り出した。
「それは、典儀とはいえ、顔見知りに剣を向けたという自責の念に嘖まれ・・・」
「ではデュラスはどうなる。わしの目の前でクラウはあろうことか兄を負かしたのだぞ」
「・・・クラウリーナは、スコット様に恋心を抱いていたのではないでしょうか」
それを聞いた瞬間、ミラウは自分の額を叩いた。
「しもうた! わしとしたことが、そんなことに気づかぬとは・・・」
「ん? どういう、ことだ?」的を射ず、バルバロスは鳥のように首を振った。
「女が剣を持たないのは、力が及ばないのでも、他に役目があるからでもありません。剣を持った以上は、どんな人間にでも剣を向けなければなりません。例えそれが、自分の愛した人であっても・・・」
ミラウは、レイラーナの言葉を噛みしめるように聞いていた。
「それが、クラウリーナにはきっと耐え兼ねなかったのでしょう」
「・・・ああ、わしはなんということを」
「いいえ、剣爵様、一旦剣を持つと決めたからには、女であっても甘えは許されません。この試練を越えてこそ、クラウリーナは初めて剣士になれるのです。そうでなければ・・・、もうこの家には入れません」
「お、お前・・・」
「レイラーナ殿、そこまで・・・」
レイラーナの瞳は、真っすぐに前を見つめていた。同じ瞳を持つ娘は、きっとどこかでその瞳を潤ませているに違いない。
「父さん! 見つかったよ!」
荒々しく玄関の扉が開いて、サークスが駆け込んできた。
「クラウリーナ!」
バルバロスは、玄関へ飛び出して迎えた。程なく、クライスに連れられたクラウリーナが入ってきた。
「河原にいるところを、市都警に保護されていました」
赤く目を腫らしたクラウリーナは、ただ俯いて力なく立っていた。
「ともかく、無事でよかった」
喜ぶバルバロスの脇を、レイラーナが擦り抜けてクラウリーナの目の前に立った。
「甘えるんじゃありません!」
その光景に誰もが驚いた。何より、クラウリーナが一番驚いていた。叩かれた頬を押さえて、唖然とした表情で目の前の母を見た。
「それでもあなたは剣士ですか! そんなに軟弱なら、今すぐ剣を捨てなさい!」
クラウリーナは、クライスの手を振りほどいて階段を駆け上がった。
「お、おい、クラウ」
「放っておきなさい、クライス」
レイラーナは、踵を返して厨房へ向かった。
「・・・驚いたあ、母さんがクラウをひっぱたくなんて」
サークスは、クライスに睨まれてそれが失言だと悟り、そそくさと居間に逃げた。
「剣爵様、今日はこれにて失礼致します。いろいろとご迷惑をおかけしまして」
「いや、それはこちらも同じこと、わしにできることであれば、何なりと遠慮なく申し付けてくだされ」
バルバロスは、クラウリーナの後を追って二階に上がった。
「クライス坊、おぬしにも謝らねばならんな」
ミラウは、これまでの経緯をクライスに話した。サークスも、クラウリーナから直接聞いていない話に興味深げに相槌を打っていた。
「我が妹故、一筋縄ではいかぬと思ってはおりました。が、しかし、これほどの資質があるとは、未だに信じられません」
「うむ、最後に見せた赤眼光、わしもあれほどとは・・・、で、クライス坊、クラウリーナとスコットの仲は、知っておったか?」
「仲、と申されますと?」
「その、なんじゃ、つまり・・・」
「ずっと好きだったんだよ、クラウは」
クライスに睨まれ、サークスはまた小さくなった。
「直に訊いたわけじゃないけど、それくらいはわかるよ」
「本当なのか?」
「五年前にスコットさんがヌーデトワールに行くとき、十八の誕生日に必ず帰ってくるって約束、あいつずーっと憶えてたんだから」
「それだけか?」
「それだけか、って言われても、僕クラウじゃないからわかんないよ。でも、スコットさんだってちゃんと帰ってきてくれたし、そうなんじゃないの?」
「・・・剣爵様、スコットはいずこに?」
「屋敷に戻っておると思うが」
「・・・出掛けてきます」
「あ、僕も行く」
「お前はもう寝ろ!」
サークスは、口を尖らせてまた椅子に座った。
「では、わしもそろそろ帰るとしよう」
「あとはこちらで、こういう言い方はぞんざいですが、家族の問題なので・・・」
「気にせずともよい、クライス坊。わしもできれば、家族というものを持ってみたかった。さすれば、もう少しクラウの気持ちもわかってやれたかもしれん」
「でも、剣爵様って、おじいちゃんみたいで・・・」
サークスは、とやかく言われる前に二階へ逃げていった。
「あいつめ、口ばっかり達者になりやがって」
「・・・おじいちゃんか、悪くないのう」
クライスは、ミラウを庵まで送った後、市都警備師団詰所で馬を借りて新市街へと走らせた。
「クラウを説得できるのは、スコットしかいない・・・」
静かな夜の街に、駆せる馬の蹄がこだました。
バルバロスは、ようやく諦めて寝室に戻った。娘の部屋の扉は固く閉ざされ、声一つ物音一つ聞こえない。代わって様子を見に行ったレイラーナも、同様だった。
「・・・わしが手を上げるならまだしも、まさかお前がな」
バルバロスは、寝台に横になったままで妻に話し掛けた。
「あなた・・・、私達は、あの子のことをわかっているようで、ちっともわかってなかったんですよ・・・」
「わしは、あいつを立派に嫁がせることだけを考えていた。それがあいつのためだと思っていたが、・・・親というのは自分勝手なものだ」
「あたしだってそうです。料理の作り方より、衣服の縫い方より、あの子が剣術を教えて欲しかったなんて、これっぽっちも・・・」
厨房で散々泣き腫らした目から、また涙が溢れてきた。レイラーナは、扉口に立ったまま目頭を押さえた。
「だから、・・・だから、これからはあの子を立派な剣士に」
「いや、それは違う、レイラーナ」
「どうしてですか、あなた」
起き上がったバルバロスに、レイラーナは詰め寄った。
「それではまた同じことの繰り返しだ。クラウリーナの進む道を決めるのはわしでもお前でもない、あいつ自身だ」
「あなた・・・」
「親は、ただ子供の進む道が逸れないように、間違った道を進まないように見守ってやるだけなのだ。そのために、全てを注ぎ込まねばならん。この命をもな」
「ええ・・・」
二人は、同じ記憶を辿って思い浮かべていたに違いない。娘の苦しみを少しでも肩代わりできるなら、どんな労苦も厭わないと二人は天に誓った。
玄関先に馬をつなぎ停める頃には、ロベルトが出迎えていた。
「夜分に相済まない、スコットはいるか?」
「先程お帰りになられました。どうぞお上がり下さいませ」
スコットの部屋の前まで来て、クライスは久しぶりにこの屋敷を訪ねたことを思い出した。もっぱら呼び付けるのはクライスのほうで、いつもエルレディアの屋敷のクライスの部屋で、不毛な議論や無駄話に明け暮れていた。
「・・・俺だ、クライスだ。入るぞ」
スコットは、窓のそばに佇んで外を見ていた。来客に気づいているはずだが、身じろぎ一つしなかった。
「・・・知っていたのか、お前は」
小奇麗に整頓された調度品には、埃一つない。主が留守の間も、この部屋は主の帰りをずっと待っていたのだろう。久しぶりに訪ねた親友の部屋を見渡す余裕もなく、クライスは真っすぐにスコットの許へ歩み寄った。
「知っていたのか、クラウが剣を覚えていたことを」
「・・・知らなかった、と言えば、嘘になるか・・・」
スコットは、独り言のように呟いた。
「別に、腹立てているわけじゃない。身近にいながら気づかなかった俺にも責任はある」
「責任? 何の責任だ」
スコットは、眉を顰めながら振り向いた。
「少なくともお前に責任なんかない。デュラスやサークス、父母上はもちろんクラウにもだ」
「し、しかし、俺が気づいていればもっと違うやり方があったはずだ。・・・今のクラウは、傷ついている。それは、兄としての俺の責任だ」
「傷ついている?」
「・・・公開試合でお前に剣を向けたことを、あいつは酷く後悔している。剣を捨てるとまで」
「どういうことだ、俺に勝ったことが悔しいなどと、それは逆だ、むしろ俺のほうが・・・」
「クラウは、・・・お前を想っている。どうやら、そうらしい」
クライスは、言い淀んで少し俯いた。
「・・・クラウが、・・・俺を?」
スコットは、嘲るように笑みを浮かべて、また窓の外を向いた。
「剣を向けるということは、例え誰が相手であろうと一瞬でも殺意を抱く。それがあいつにはたまらなかった。面で顔がわからなかったとはいえ、あいつはお前に剣を向け、そしてほんの一瞬殺意を抱いた。それがな、・・・たまらなかったんだろう」
「それだけで、剣を捨てると?」
「充分だよ、それでも。ただ、俺達にはわからないだけさ。愛する者に剣を向けた苦しみ・・・、男の俺達にはわからない・・・」
「・・・そう、クラウは女だったんだ・・・」
クライスに言葉を聞き返され、スコットは振り向いた。
「そりゃ、昔から好きだったさ、クラウのことは。でもそれは、お前と同じように、俺も兄貴分として・・・」
「ならスコット、お前からあいつを説得してくれ。剣を捨てるなと」
自分の不甲斐なさで、クライスは押し潰されそうだった。愛する妹のために何もしてやれない口惜しさに、拳を強く握り締めた。
「・・・責任なら、俺にある。クラウの剣の資質を見抜いたのは、俺なんだ」
「スコット・・・」
スコットは、昔を懐かしむように目を閉じた。
「最初は、サークスに剣を教えていた。忙しいお前やデュラスに代わってな。しかし、遊び相手のいないクラウが寂しがって、俺は粋狂で彼女に木剣を渡した。もちろん、本気で教えるつもりなんかなかったが、ずっと俺達を見ていたんだろうな、クラウのやつはしっかりと剣を構えて振っているんだ。試しにサークスと手合わせさせてみたら、たまたまクラウが勝ってしまった。サークスに自信をなくさせてはまずいと思った俺は、クラウと剣を合わせた。・・・ところがだ、あろうことか、俺は本気になってしまったんだ。たかだか十歳そこそこの子供にな。俺は、クラウを剣爵様のところへ連れていった。サークスのほうが気になって遠ざけるつもりでそうしたんだが、剣爵様もやはりクラウに剣の資質を見出した。バルバロス殿やレイラーナ殿には申し訳なかったが、俺も剣爵様も彼女の資質を捨て置くわけにはいかなかった。それほど、クラウは素晴らしかったんだ」
「八年も・・・、辛かったろうな、俺や父母に内緒で」
「だがな、クライス。俺からクラウを説得することはできない」
「なぜだ、スコット」
「クラウが剣を捨てるというなら、そうさせるしかない。俺達がどうこう言える問題ではない」
「・・・剣爵様は、コモン・ブラウをクラウに継がせるとまでおっしゃった。それでもあいつに剣を捨てろと?」
「決めるのはクラウ自身だ。俺達には、どうすることもできない」
「責任逃れをするつもりか、スコット」
「何だと?」
「事の発端がお前なら、こうなった責任がお前にないとでも言うのか。クラウは、お前を想うあまり迷い悩んでいる。無論、そうなったのはあいつの勝手だが、それをなんとかしてやれるのはお前しかいないんだ。・・・それも勝手な話かもしれんが」
スコットは、握り締めた拳を隠した。
「・・・ヌーデトワールへ行くことになって、スペリアードを離れても、気になるのはクラウのことだった。変な意味じゃない、彼女がどんな剣士に育つのか、それが楽しみだった。十八の誕生日に帰ってくるという約束は、俺が言いだしたんだ。十八になれば、将来の道筋を決めなければならない。少しでも助言してやりたかったし、何より、どれだけ成長したか見ておきたかった。ところが、どうだ。クラウは剣士としてだけでなく、女としても立派に成長していたんだ。本当に、彼女に剣を教えてよかったのだろうか。・・・迷い悩んでいるのは、俺も同じかもしれん」
「スコット・・・、俺は、お前に最後まで責任をとってもらうつもりでいた」
「最後まで? どういう意味だ」
「そ、それ以上訊くな。・・・お前ならと、思っただけだ」
スコットは、言葉の意味を理解して肩をすくめた。
「男としての責任は果たせないかもしれんが、剣士としての責任はとらせてもらう。それでいいか、クライス」
あの時、面板の隙間から見たクラウリーナの姿に、スコットはロベルトから聞いた母の姿を重ねていた。もし母が生きていたら、一緒に剣を教えてくれただろうか。
単に約束を果たしただけだと、スコットは今でもそう思っている。約束を果たすためなら、どんな犠牲も厭わないと思っている。だが相手がクラウリーナでなかったら、自分は同じことをしただろうか。スコットは自問した。
夜の闇が一段と深くなったころ、スコットは馬を停めた。
手の震えは収まったが、心の奥は震えっぱなしだった。クラウリーナは、沸き起こってくる感情をどこへ向けていいのかわからないでいた。寝台に横たわったまま、天井を見つめるしかなかった。
明日、どんな顔をしてみんなと会えばいいのか。クラウリーナは眠れそうになかった。
「・・・誰?」
合図は扉ではなく、窓のほうだった。教導所に通ってた頃は、悪友が夜中にこうやって誘いに来たものだ。クラウリーナは、白い寝衣の裾を引きずって窓の側に寄った。
「スコット?」
クラウリーナは、顔を覆って窓から離れた。
「・・・だめよ、何て言えばいいの・・・」
また窓を叩く音がした。心を決めて、窓から顔を出した。
「もう石がないんだよ、クラウ」
スコットは、肩をすくめてこちらを見上げていた。
「スコット、あたし・・・」
「下りてきてくれないか、話がある」
この機会を逃すともう話せないような気がしたが、クラウリーナはどうしても足が動かなかった。
「だめ、・・・行けない、あたし」
「ならそこでいい、俺の話を聞いてくれ」
クラウリーナは、窓から顔を出して頷いた。
「明日、向こうに戻る。今度は、いつ帰ってくるかわからない。前みたいに、約束するわけにはいかないんだ。だから、いつ会えるかわからない」
「・・・もう、誕生日来てくれないの?」
「約束はできないんだ。でもクラウ、剣は続けてくれ。それは、俺と約束してくれないか」
「できない! もう剣なんて持ちたくない!・・・、あたし、一瞬でもあなたを・・・」
「わかっている、何も言わなくていい。だから聞いてくれクラウ。・・・俺は、政治の仕事をしている。自分の道を信じて、これからもその道を進んでいくつもりだ。だが、その道が常に正しいとは限らない。・・・もし俺が、間違った道に進むようなことがあったら、クラウ、・・・君の剣で俺を倒して欲しい」
「そ、そんな・・・、そんなこと・・・」
「だから剣を続けてくれ。素性の知れぬ刺客に殺されるよりは、君に殺されたほうがよっぽどましだ」
「嫌よ! そんなの嫌よ!」
「いいかクラウ。今、君は、他の誰にもできないことをしようとしている。それはきっと、この世界を変えてしまうほどの力になるはずだ。だから、みんなのためにも、剣を続けて欲しい」
「みんなのため?」
「剣は、人を殺すためだけにあるんじゃない。それを、みんなに教えるんだ。人を生かす剣を」
「人を、生かす剣・・・」
「女の君にしかできないことなんだ。わかるかい、クラウ」
「あたししか、できないこと・・・」
「いつかまた、世界が混乱するような時が来たら、その人を生かす剣で、世界を救ってくれ」
「・・・あたしに、そんなことできるの?」
「できるさ、君はクラウリーナ・エルレディアなんだ」
「・・・クラウリーナ・エルレディア・・・、あたししか、できないこと・・・」
「約束、してくれるね?」
クラウリーナは、窓から精一杯身を乗り出して、スコットに小指を立てた。
「でもスコット、・・・あたしは、信じてる。だからあなたは、間違った道になんか行かないわ」
「ああ、俺もそのつもりだ」
「帰ってきてね、また」
スコットは、答えなかった。その代わりに、微笑んで手を振った。柵につながれた馬が、早くしろと鼻息を荒げた。
「・・・そうよ、一緒に剣術の稽古したかったから、ちょっとでも一緒にいたかったから・・・」
遠く薄れていく蹄の音を聞きながら、クラウリーナはいつまでも夜の空を眺めていた。
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