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クラウリーナ・エルレディア
第一章北部街道沿いの宿場町の町並みが、荒涼とした草原の向こうに見え隠れしている。繰り返す車窓の景色にも、スコット・クリスレードの食欲が削がれることはなかった。
単調な景色も、少しづつ変化しながらやがて懐かしい故郷の風景となる。親友や家族の待つ懐かしい故郷は、この遥か鉄軌の彼方にあるのだから。
少し遅い昼食は、煮込んだ野菜のスープと、鶏肉に擦り潰した香草をまぶして焼いたものだった。卓上に置かれている拳大の黒パンは固いので、スープに浸すとちょうどいい感じになる。揺れるとこぼれるスープは早めに始末したいので、落ち着いて食事をとるにも都合がいい。
ゴルドレック鉄幹軌道は、間もなく第二期計画を完遂する。難航していたカカコルフ山脈を貫く隧道工事も完了し、北部線は西側の新たな拠点、ヌーデトワールへと至る。大戦で戦火を交えたスペリアードとヌーデトワールは、これでようやく本格的な復交協議に入ることができる。それはゴルドレック連邦行政府の切望するところであり、在ヌーデトワール連邦政務官の責務でもあった。
幅広い三本の鉄軌は鋼鉄の車輪を捉え、曲路でもほぼ減速することなく走行することができる。噴気動力車が牽引する十二連客車の中程に、食堂車はあった。沈んだ赤色の織布が壁に張り付けられ、円弧造りの天井からは煌びやかな燭台がぶら下がっている。窓枠や椅子の背には彫刻が施され、食卓に掛けられた白い角布の上で、透明な酒器が揺れに任せて搗合っている。賑やかな会食もいいが、食事はこうやって一人でゆっくりとるのが一番いい。
深皿のスープが煮崩れた野菜だけになった頃、食堂車に秘書がやってきた。スコットは秘書を一瞥すると、手にしていたパンをちぎって口にした。
「ル・パフの主任商務官がお見えです」ロベルト・パガンは、スコットの心情を察して白い眉を顰めてから下がった。
スコットは、口拭きを襟元からひったくるようにすると、漆黒の髪を撫で付けた。
「客室に戻る」
口拭きが、スコットの手からはらりと落ちた。長身を包んでいる濃紺の公官服の小さな襟を正して、腰に吊り下げた細身の剣鞘に手を掛け、板張りの床を踵で鳴らしながら、スコットは食堂車を後にした。老練の秘書は、列車の揺れに足元をおぼつかせながらも、頭を垂れて見送った。
廊下にも、無粋な来客の笑い声が聞こえている。スコットは舌打ちをしてから、顔をつくって公用客車の自室に入った。
「やあ、これはクリスレード連邦政務官殿」
窓を背にして座っている禿げ上がった図体のでかい男は、確かにル・パフ国商務局の主任商務官メイスン・ギュランだが、左手の長椅子に座っている男は、秘書にしては態度も悠然としている。
目鼻を覆う頭甲を外そうともせず、剣こそ携えていないが、スコットは要人警護の剣士だろうと推した。肩と脛に、衣服の一部のような衣甲も見受けられた。
「おくつろぎのところ申し訳ない」メイスンとその男は、立ち上がって握手を求めた。「彼はわしの警護人だ、別段名乗るほどの者でもないので、ご容赦願いたい」
「なるほど」
スコットは、名乗るほどでもない男と握手を交わし、向かい合うように反対側の長椅子に座った。
「はて、この時節に何か大きな会議はございましたかな?」
「私用です。約束は守る主義でして」
「約束ですか。私用と申されますと、さては・・・、まあこれ以上は申しますまい」
スコットは、ギュランの邪推を笑った。
「ギュラン殿は、どちらまで?」
「市都スペリアードだが、その前にアーネハースで物流に関する商務会合に出ねばならんのでね。こいつのお陰で五倍は忙しくなったよ」ギュランは手の甲で窓を叩いた。
「もっと忙しくなります。次の連邦会議までには、北部線は全線開通させます」
「まったく、クリスレード殿の手腕には頭が下がる。まさに亡きお父上譲り、いや、お父上をもう超えましたかな」
スコットは、照れた振りをして笑った。
「どうやら、連邦は本気で東西国交を復活させたいようですな」
「ヌーデトワールとの交易が本格化すれば、ゴルドレック大陸に新たな時代が築かれましょう。それは我が連邦行政府の最大の目標でもあります」
「大した産業もないあんな僻地に、それだけの価値があるとは思えませんな、連邦政務官」嘲るようにギュランの口角が歪んだ。
「上辺だけしかご覧にならないからそう思えるのです。確かに今のヌーデトワールは、大戦の影響が未だ色濃く残ってはいますが、戦前はスペリアードを凌ぐ大国であったと聞きます。異大陸文明の影響を受けて培われた文化を、このまま捨て置く訳にはいきません」
「ほう・・・、それはヌーデトワールに魅入られているあなた個人のお考えか、それとも・・・」
「私の言葉は、連邦行政府の言葉でもあります。ギュラン商務官」
ギュランは、膝に置いていた手を軽く二度叩いた。
「・・・それが連邦の真意なら、こちらにも考えがある」
喉元に突き付けられた鈍い光を、スコットはまじまじと見た。
「なるほど・・・、こういうことか」
向かいの男が、袖に隠し持っていた小剣をスコットに突き付けていた。
「せっかく甘くなった水を薄めるようなことは、我が国にとって本意ではないのでね」
「我が国? 暴利を貧っている噂は聞き及んでいるぞ、ギュラン商務官」
「そうか、ならば尚更生かしておくわけにはいかんな」
客室の扉が開いて、秘書が驚愕の表情を見せた。
「スコット様!」
男の目が逸れた隙に、スコットは切っ先をかいくぐって廊下へ飛び出した。
「えーい、逃がすものか!」
食堂車へ駆け込んだスコットを、ギュランと男が追いかけてきた。スコットは、振り向いて待ち構えた。
「覚悟しろ若僧!」
「今更私一人を殺めたところで、何も変わりはしない」
「悪い血は絶やさねばならん。貴様の父上がそうであったようにな」
「なんだと・・・」
スコットは、腰の剣を抜いた。
「ふふっ、いくら貴様がコモン・ブラウの剣将であろうと、こやつのコモン・ルオには勝てまい」
「コモン・ルオ? 幻の暗殺剣という、あのコモン・ルオの使い手だと?」
ほくそ笑むギュランの前で、男は両手に小剣を構えた。
「ふっ・・・」
「な、何がおかしい!」
「確かにコモン・ルオは最強の剣だが、流派の違いが力の差ではないことをわからせてやろう」
「この期に及んで見苦しいぞ! やれ!」
男は、両手に剣を構えたまま、じりじりとスコットににじり寄った。
「いいだろう、来るがいい」
スコットは、半身になって剣先を相手に向けるように構えた。互いに間合いを詰め、ほぼ同時に二人の足が止まった。
「ん?」
男の仮面の目の辺りの隙間が、何やら赤く光っている。
「赤い目・・・、まさか赤眼光?」
しかし確かめる間もなく、男は逆に間合いを取り始めた。
「どうした? 早くやれ!」
男は、明らかに手をこまねいていた。
「手は出せぬか、さもあろう。貴様の主人も無茶なことを言うものだ」
「な、何だと!」
「コモン・ルオが最強と言われる所以は、その高い機動性にある。だがこんな狭いところでは、その機動性も半減してしまう。そうなれば、攻撃力の弱いコモン・ルオなど赤子同然」
「言わせておけば・・・!」
黙ったまま微動だにしない男の後ろで、ギュランは地団駄を踏んでいる。
「名もなき剣士よ、無能な主人に仕えて貴様も不本意であろう。今剣を引けば見逃してやる。改めて戦いを挑んでくるがいい」
スコットは、剣を下ろした。それを見て、糸が切れたように男も剣を引いた。
「お、おい、どうした、なぜやらん!」
詰め寄るギュランを無視して、男は踵を返した。
「貴様! 裏切る気か!」
剣を抜こうとしたギュランに、男の小剣が一閃した。
「うぐっ」大きな身体が、力なく横たわった。
男は倒れた主人を一瞥することなく、食堂車を後にした。
「ふーっ・・・」スコットは額の汗を拭って、大きく息を吐き出した。
下賎な血の匂いが辺りに広がる。スコットは、ギュランの亡骸に一瞥をくれて、男の去ったほうを見遣った。
「コモン・ルオ、付け焼き刃が効く剣でもあるまい・・・」
スコットにも、ギュランを殺めた男の腕の動きは僅かしか見えなかった。まともに戦えば、勝ち目はなかったかもしれない。
「それにあの赤目、話には聞いていたが、赤眼光を会得している剣士がこの時代にいたとは・・・」
「ス、スコット様、お怪我は?」
「大丈夫だ、ロベルト。鉄警隊を呼んできてくれ」
倒れているギュランに顔を顰めながら、秘書は駆け出していった。騒ぎを聞き付けたのか、後ろで調理人達が覗いていた。
「すまないが、こいつを温め直してくれないか」
スコットは、冷え切った皿を差し出した。
ゴルドレック大陸文明が、五十年前の大戦で失ったものは計り知れない。西端のヌーデトワール国と東端のスペリアード国、東西の両大国が大陸全土で繰り広げた戦乱で、人々は心身共に疲弊の極みに達した。
終戦後、事実上の勝利国となったスペリアードは、敵国の戦後処理だけでなく、戦禍の及んだ大陸の人々にも、復興に向けての力添えをしなければならない責任があった。前王の急死を受けて終戦間際に即位したジュラス・スペリアーレ・イシク十四世は、ゴルドレック大陸の各国を連邦制で治めることを提案した。
戦争に辟易した民衆は、スペリアードに二度と戦争の起こらない社会を求めて、軍備の削減を声高に叫んだ。スペリアードにとって、戦後のゴルドレック大陸を治めるためには、民衆を懐柔させることが何よりの急務であった。しかし、長い戦いは軍需を大陸経済から切り離せないほどに肥大させ、軍備の削減はそのまま経済の縮小につながりかねない事態になっていた。
連邦制の導入は、各国の自治権を尊重しつつ諸問題の協調解決を図ることができ、それはまた互いの国勢を注視することにつながって、前大戦のヌーデトワールのような暴走を事前に察知して手を打つことができる。そうすることによって、拡大した軍備をある程度維持したままで民衆を納得させられると、イシク王は考えた。国同士が見張り合うことで戦争を抑止する状況を作り出しさえすれば、民衆の意識は軍備には及ばないと踏んだのである。
更にイシク王は、大陸各地において戦時中に確立された剣術を一般に広めて、剣が民衆にもたらす印象を和らげようとした。精神と肉体の鍛練として、剣術教導は瞬く間に世界中に広まった。
五十年という月日は、荒廃した大陸に戦前以上の活気をもたらした。それは同時に、戦争の痛みや苦しみが忘れられていった結果でもあった。
「・・・まだ、雪は来ぬな」
市都スペリアードの遥か北、ブンシュトルフの山並みは、もう白く染まっていた。
「そのようでございます」
ルワン・ダイストーは、王宮直属の侍従長として即位後から仕えていた。身の回りの世話をするだけでなく、悩みや痛み、苦しみさえ共に分かち合ってきた、イシク王にとって彼はもはや分身のような存在でもあった。
今となっては、王宮にはイシク王の他に数人の侍従が住まうのみである。連邦復興を掲げ、公務に身を擦り減らした結果、直系子孫で王位を継承できる者は一人もいない。現王亡き後、君主制は廃止されて国政は民主制に移行するのではないかというのが、もっぱらの噂である。
「お身体が冷えます故・・・」
外套を携えた侍従長を、イシク王は部屋の中へ下がらせた。王の居間は、北の山脈が見渡せる宮殿の北西にあった。白い身衣を纏って露台に佇むイシク王は、冷たい風に年老いた身体を晒すことで、全てを忘れそうな己の愚かさを問いただしていた。
「・・・この景色だけは、永遠に変わることはあるまい。例えこの目が、この身が果てるとも・・・、永遠に・・・」
その目はもう凄惨な光景を、その耳はもう戦慄する叫喚を、その口はもう不本意な言葉を、その肌はやがて吹き来る雪風を、そしてその手はもう、かつて五剣爵と呼ばれたように剣を握ることも、ない。
勅命により、次の連邦会議開催までイシク王の死は伏せられることになっていた。ただ一人侍従長だけが、青く澄み渡った晩秋の空の下で、崩御の際に居合わせられた光栄を噛みしめていた。
かつて、五剣爵と呼ばれていた剣術の猛者がいた。王族の出でありながら剣術に長け、身の危険を省みず戦場に赴いた、後のイシク王ことジュラス・スペリアード。共に戦ったスペリアード三軍剣将、ジュゼ・ミラウ。ロガリアの鉄騎兵、ホロウ・ルカイ。シンラール王宮親衛隊、ガラ・フェンドリオ。そして、ヌーデトワール特殊工作部隊、シャス・ロヌ。
彼らを開祖とした剣術は、軍の教導や弟子達によって大陸中に広められ、それぞれコモン・ラシーヌ、コモン・ブラウ、コモン・ディーク、コモン・ジュール、コモン・ルオとして現代に受け継がれている。
侍従長の訪問を受けて、ジュゼ・ミラウは五剣爵最後の一人となったことを嘆いたあと、勅命に背いてイシク王の崩御を知らせに訪れた侍従長をなだめた。
「そうか、ジュラスまでも・・・」
ミラウは、顎に貯えた白い髭をひとしきり指でさすった後、何かを隠すように両の瞼を皺ませた。
「そなたの心遣い、このジュゼ・ミラウ、天に捧げた剣に代わって感謝する」
深く答礼して、侍従長は緑深いミラウの庵を後にした。もはや流す涙も底を突いたのだろう、大役を勤め上げたその顔はどこか晴れやかでもあった。
コモン・ブラウの開祖であるジュゼ・ミラウの庵は、王宮の東、ルオン川から引き込まれている運河のほとりにあった。都会の喧騒は年寄りには似合わぬと、数年前から緑に覆われたこの地に居を構えている。
大戦時に率いた三軍は、ル・パフ奪回作戦で先勝を収め、スペリアードの劣勢を覆す切っ掛けとなった。腕力を敏捷性で補う一撃必殺の独自の剣術は、コモン・ブラウとして確立され、自らも五剣爵として崇められるようになった。無下に崇拝されることは本意ではなかったが、それもイシク王であるジュラスの、剣術を広めようとする意を適えるためであった。
八十を越えた今では、さすがにその顔には越年の皺が刻まれ、頭頂は顕になり、矍鑠とした所作にも以前ほどの切れはない。しかし、黒い合わせ布の身衣に包まれた身体から漲る気合いはなお、相対する者を怖じけ付かせるほどの迫力を備える。
だが今は、友の訃報に接して悲しむただの老翁である。普段は開け放たれている窓戸の類を閉め、ミラウは一人、黒い身衣の襟裾を正して居間に座した。王である前に、ジュラス・スペリアードは戦火を共に潜り抜けた友人であり、良き理解者であった。友人の死を秘して悲しまねばならない現状に、ミラウは口惜しく目を閉じた。
「さて、ジュラスよ・・・、とうとう貴殿の真意を訊けずじまいだったが・・・」
ミラウは立ち上がり、居間の窓戸を開け放った。緑の香が、川のせせらぎが風に乗ってやってくる。板張りの縁側に出ると、木々の間から垣間見える王宮の塔を見上げた。
「・・・どうするつもりなのだ・・・」
ミラウのその呟きには、焦りにも似た響きがあった。
戦後、スペリアードの軍事力はある程度縮小されたが、依然として五十万人規模の戦力が維持されている。戦時中と比較すれば半減しているが、軍事政権国家であるロガリアの通常戦力が十五万人であるから、連邦内の戦力配分としては圧倒的に優位である。
無論それは、新たな戦争行動の抑止と連邦各国の動向監視を目的としたものであるが、膨大な軍事費はスペリアードの内政を常に脅かしていた。
「連邦軍? 連邦軍で、ありますか?」
クライス・エルレディアは、その言葉を心の中でも反芻していた。
「ま、そういう考え方もあるということだ」
赤い顔をした軍務局の高官は、失言を隠すようにクライスの目の前から立ち去った。迎賓室には、軽食と酒瓶の置かれた食卓が部屋の端に並べられ、出席者は酒器を片手に歓談している。
アーネハース市郊外で行なわれていた、スペリアード西部軍総合機動演習の終了を受けて、市内にある軍務局庁舎では宴席が設けられていた。宴席といっても、酒が振る舞われる会議のようなものだったが、出席した武官達は一様に演習の無事終了を互いに労っていた。
クライスは、今年から戦術武官として西部軍第六師団に着任していた。その名の通り、スペリアード西部に配置されている西部軍は、アーネハース市に本部十四個師団、国境のミシュアードに八個師団、遊撃戦力として二個旅団を有している。
大戦時の第三軍を基礎とし、戦略上は侵攻が主任務となるため、騎兵を中心とした機動力に富んだ編成となっている。有事には作戦正面を担任するため、砲術部隊が全軍で最も多く配置され、本部師団には戦略研究部門や装備開発研究部門も置かれている。
アーネハースに置かれた十四個師団は、本部師団一、常駐正面防衛五、周辺警戒四、沿岸防衛三、鉄道警備一、とそれぞれ振り分けられ、クライスの所属する第六師団は、常駐正面防衛戦力の一つとしてアーネハースに駐屯している。
談笑の声が迎賓室の高い天井にこだましている。クライスの脳裏に、先刻の軍務高官の言葉が浮かんでは消えていった。眼窩の奥深くから射るような視線が、微動だにせず虚空を貫いている。父を知る武官からは、その眼差しがそっくりだとよく聞かされた。左胸に施された、二本剣を型取ったエルレディア家の紋章も、一際重く感じられる。
弱冠という形容が、クライスに付きまとうのも仕方のないことだ。戦術武官といえば、師団を率いる師団司令官の下で戦術を立てる前線の指揮官である。剣術に秀でていることは言わずもがな、戦局を分析できる豊かな見識と、五千人余りの兵士を意のままに動かせる統率力が要求される。明るい水色の軍服とは裏腹に、その責務は夜の闇の如くのし掛かってくる。
武官級が出席できるこの宴会は、どこを見渡しても老輩で溢れ返っている。クライスは、自分を見る視線が上下に二通りあることに気づいていた。
「飲んでるか、坊主」
後ろから背中を叩かれ、クライスは思わずよろけた。彼だけは、真っすぐ自分を見てくれていることに、クライスは安心していた。鮮やかな白い軍服まで、仄かに赤みを帯びているようだ。第六師団司令官ライア・スタークは、父の旧友でもあり、クライスを武官に引き上げた張本人であった。
どちらかと言えば神経質な父と違って、スターク師団司令にはいい意味での大らかさといい加減さがあった。クライス自身、幼い頃からもう一人の父親のようにスタークを慕い、今はこうして共に軍属として同じ部隊で寝食を共にしている。
「休みはどうするんだ、帰るのか?」
酔うと野太い声が一層大きくなる。スペリアードの実家のことだろうと察し、クライスは頷いた。
「妹の誕生日なんです」
「おう、あのじゃじゃ馬娘か。よくバルバロスから聞かされたよ。そうか、誕生日か。で、いくつになる」
「今度で十八になります」
「十八か、バルバロスも気が気でなかろうて。悪い男が付かないようにしないとな」
「さて、あんなじゃじゃ馬を嫁に迎えようという奇特な男なら、こちらから願いたいものですが」
「お前が言うなよ、クライス」
クライスはもう一度背中を叩かれたが、今度はなんとか持ち堪えた。
「明日暇だったら、どうだ付き合うか?」
スタークは、剣を振る仕草をした。父同様、コモン・ラシーヌ剣伯の位称を持つスタークは、父とはまた違った奥義を会得しているので、手合わせする度に非常に勉強になる。
「いえ、申し訳ありませんが、明日は友人を出迎えに駅まで」
「そうか、それは残念だ。じゃ、父上とじゃじゃ馬娘によろしくな」
角ばった顔を丸めるように笑いながら、スターク師団司令は饗応の席へ紛れていった。
「友人、か・・・」
ありふれた言葉だが、クライスは口にして気になった。今では異なる立場になってしまった者同士が、友情というものをどれだけ感じ、またそれを無視してどれだけ互いの職務に忠実になれるものかと。
確かなことは、五年ぶりの再会が待ち遠しいということだけだ。今はそれでいいのかもしれない。立場は違えど、ゴルドレックの平和と発展を願う気持ちは同じはずなのだから。
友人の大切さは、父を見ればわかる。親友との再会に思いを駆せ、クライスは次の酒器を探った。
澄み渡る青い空をふと見上げれば、さえずりながら戯れている鳥の姿があった。その鳥の名を思い出せぬまま、バルバロス・エルレディアは恩師の庵の前まで来ていた。
コモン・ラシーヌ剣伯、あるいは軍の剣術教導官としての威厳も今は微塵もなく、そこにはただありふれた父親の姿があった。それほど思い詰めたまま、バルバロスは辺りを見回して一人驚いていた。
「い、いつの間に・・・」
無意識のうちに身体がそうさせたのだろう、バルバロスは主が不在とも知らず、庵の中を垣根越しに覗き込むようにしていた。刈り上げた襟足の辺りをしきりに掻いて、所在なげに歩き回る姿は、まるで山熊である。
「あれは・・・、バルバロス殿か」
その顔から生気は失せ、死人のように逡巡しているバルバロスに、出先から帰宅してきたミラウは驚いて声を掛けた。
「それが人を教え導く顔か、バルバロス殿」
「こ、これは剣爵様、ち、近くまで来た折、剣爵様におかれましては・・・」
「下手な言い訳はよい。早く入られよ」
垣根に覆われた木戸を押し開け、ミラウはこの男の心労が察して余りあることに気づいた。
「いつまでもそんな顔をしておるのなら、剣伯の位称を返上せねばならんぞ」
「は・・・、それも然りで」
冗談までも通じないとは、もはやこれまでである。縁側に腰掛けた二人は、昼下がりの陽光に身を晒していた。
「そなたほどの豪傑がこうもうなだれるとは、・・・さてはお嬢ちゃんのことか?」
途端にバルバロスは顔を上げ、掴みかからんばかりにミラウに迫った。
「そうなのであります、剣爵様。実は娘のクラウリーナのことで・・・」
「久しく会っておらんが、元気でやっておるのか?」
バルバロスは大きな溜息をついて、力なく空を見上げた。
「・・・確かに、私も妻も女子を切望しておりましたが、いざこの腕に抱いてみると、どうやって育てていけばいいものか」
「四人の男子を立派に育ててこられた貴殿の言葉とは思えん。今まで通りでよいのではないのか?」
「しかし女子となると、今まで通りというわけには、まさか娘に剣を教えろなどと・・・」
ミラウは、口に手を当てて二三度咳き込んだ。
「わしは、この通り剣に惚けた身故、子育てに関しては疎いのだが、得てして子というのは、親の思い通りにはならぬものではないのかのう」
「それはそうでありますが・・・」
バルバロスは、ミラウに身を寄せると耳打ちをするように手をかざした。
「実は、娘が私どもに内緒で、どこかへ出かけておるようなのです」
「うむ・・・、左様か」
「もうすぐ十八、子供扱いはしないつもりですが、やはり・・・」
身体を元へ戻すと、バルバロスの口からまた溜息が洩れた。
「では尋ねるがバルバロス殿、何が一番心配じゃ」
「は?」
「何を一番恐れておる」
「恐れる、と申しましても・・・」
「娘ならばいずれ親元を離れるは必定、手塩にかけて育てた娘が手元を離れるは寂しかろう」
「はあ・・・」バルバロスは、力なく答えてうなだれた。
「そろそろお嬢ちゃんに許婚者が現われても不思議はない。ましてそなたは父親、許婚者にとっては最大の敵、なれば秘して然るべきではないのかな」
「やはり、・・・そうでありましょうか? クラウリーナにその・・・」
バルバロスは、言い淀んでかぶりを振った。
「何を消沈することがあろう、親であるなら喜ぶべきではないのかな?」
「いやしかし、まだそうと決まったわけでは」
「女子が内密のこととあればそうに決まっておる。それとも、お嬢ちゃんが親の目を盗んで剣術の稽古に明け暮れているとでも・・・」
「なりませぬ、断じて剣術だけは!」
バルバロスは、縁側の床板に拳を打ち付けた。
「こ、これは、失礼致しました、剣爵様」
「い、いや、い、一向に構わぬが・・・」
「娘には、どこに嫁入りさせても恥ずかしくないような、随一の淑女に育ててきたつもりです。剣術などととんでもない、もし仮にそうであったなら、二度とエルレディア家の門は潜らせませぬ」
ミラウは、口に手を当てて咳き込んだ。
「やはり、親の思い通りには行かぬのかも知れんが・・・」
青い空高く、名も知らぬ鳥がさえずっていた。
森の中で、気合いと共に剣の弾き合う音が響いている。それはやがて、世界中の森や通りにまで響き渡る。剣術宮試の開催を間近に控え、腕に憶えにある者は逸る心を抑えるのがやっとだろう。剣術宮試で勝ち抜いた者だけに与えられる剣将の位称は、流派の奥義を極めた証であり、剣術を心得る者の最高の褒賞でもある。
「くそっ」
サークス・エルレディアは、振り下ろされてくる剣を弾き返して大きく後ろへ引いた。しかし彼を狙う剣は、容赦なく襲いかかってくる。
「うわっ!」
剣の切っ先がサークスの鼻先をかすめた。狭い森の中で不用意に動いたため、聳える木々に阻まれて完全に逃げ場を失っていた。更に相手に踏み込まれ、全く勝機を見出せないサークスは、観念して剣を地面に突き立てた。
「ま、参った。参ったよクラウ、俺の負けだ」
その言葉を聞いた途端、クラウリーナ・エルレディアは、いつものように愛くるしい微笑みをその顔に取り戻した。
「まさか、お前がこんなに強くなってるとはな」
ようやく一筋流れた額の汗を拭い、襟足が見えるまで短く切り込んだ深い茶色の髪を掻き上げながら、クラウリーナはもう一度意地悪そうな笑みを浮かべた。
「あたしなら勝てると思った?」
口惜しそうなサークスとは対照的に、クラウリーナは嬉々として木剣を腰の鞘に収めた。練習用の軽衣甲を纏った上半身も、サークスのほうが大きく上下している。
「これじゃ、宮試に出たって勝てっこないな」
真ん中で分けた茶色の髪を、片手で無雑作に掻き上げたついでに流れる汗を拭って、サークスはすっかり自信をなくしていた。
「そんなことないわ。宮試まであと一月あるんだから、みっちり練習すれば一回戦くらいは勝てるわよ。予選のね」
「一回戦くらいは、か。言ってくれるよ」
母親似の大きな瞳を持つ二人は、年が近いこともあって小さいころからよく一緒に遊んだ。他の兄達と違って、自分だけ「兄さん」と呼ばれないことに、サークスはもうこだわっていない。
「クラウが男だったらな。正々堂々と剣爵様の教えを受けられるものを」
「それは言わないで」
木の実のような瞳が曇った。両親や他の兄達に言えない秘密も、クラウリーナはサークスにだけ打ち明けた。というより、クラウリーナの心境の変化を逸早く悟ったのがサークスだった。
「やっぱりクラウ、お前は宮試に出るべきだよ」
「無理よ、女が剣術宮試に出るなんて」
「大丈夫さ、きっと剣爵様がなんとかして下さる。あとはお前の気持ちだけだ、クラウ」
「でも・・・」
他に兄達に比べて小柄な身体を精一杯延ばすように、サークスは精一杯兄であろうとした。
「それでもし優勝でもしてみな、お前が剣を持つことなど、誰も何も言わなくなる。もちろん、父さんもな」
「そうかな・・・」
自分が父の望まない道を進もうとしているのは、クラウリーナ自身もよくわかっていた。それがエルレディア家に生を受けた宿命だと言っても、到底父は納得しないだろう。となれば、父にその実力を直接示すしかないと、クラウリーナは思った。
「いけない、夕食の支度手伝うんだった!」
慌てて腰から鞘を外し、衣甲を脱ぎ捨てて駆け出すクラウリーナの後ろ姿を、サークスは呆れながら見つめた。
「・・・いや、お前は剣の道へ進むべきなんだ、クラウ・・・」
人に助言できるほどの強さを、自分は身に付けているはずだと、サークスは信じたかった。
巷では、厨房から立ち上る湯気で、その家の抱えている問題がわかるという占いが流行っていた。湯気の勢いや出方、漂ってくる香りなどで判断するそうだが、占い師が足を止めそうな湯気が、旧市街に立ち上っている。
古くは王室の近衛軍、近代では軍の剣術教導に従事してきたエルレディア家は、スペリアードでも名立たる良家の一つである。王宮に程近い旧市街に、石造りの瀟灑な佇まいを見せる屋敷が建っている。
奥行きのない左右に広がった間取りは、ヴィラ・ルースと呼ばれるゴルドレックの一般的な建築様式で、旅舎や庁舎などによく見られる。一階部分の天井は高く採られ、玄関からつながる中央部分の高く張り出した塔と、細長い窓が特徴である。市都の旧市街には、このような古い建物が散在しており、多くはその土地の名家が住居として使用している。
件の湯気は、一階左端に別棟で隣接している厨房から吹き出ていた。それは往来からも、垣根越しによく見えていた。
「もう、どこへ行ったのかしら、あの子は」
レイラーナ・クシス・エルレディアは、ゆったりした身衣を前掛けで締め、湯気の中でふくよかな身体をせわしくさせていた。引っ詰めた髪もあちこちでほつれ、二列に並んだ竃の間で思案に暮れている。
「お義母さま、手伝います」
ローリア・グラス・エルレディアも、ふくよかな身体を抱えていたが、それは彼女一人分の身体ではないからだ。身重を感じさせない顔色は地のものだろう、亜麻色の髪を後ろで束ねながら、湯気の立ち込める厨房に足を踏み入れた。
全く環境の異なるエルレディア家に嫁いでも、彼女の活発さと気前のよさは、ブンシュトルフの山々のようにいつまでもすがすがしい。時折垣間見せる下町育ちの気丈さも、生まれくる子に受け継がれることだろう。
「あなたはいいのよ。あ、それなら、クラウリーナを探してきてちょうだい。あの子ったら、あれほど夕食の支度を手伝ってって言ってるのに・・・」
言葉の最後は廊下で聞いて、ローリアは玄関へ向かった。
「ただいま・・・」
自分の置かれた立場を弁えている小さな声に、ローリアは玄関へ急いだ。
「お帰り、クラウ」
扉から不安そうに覗くその顔が、一気に綻んだ。
「ローリア、来てたの?」
挨拶もそこそこに、クラウリーナは巻き布の下衣の裾を直しながら、ローリアの足元にしゃがみこんだ。
「ただいま、メリーナ」
クラウリーナは、ローリアの大きなおなかにそっと耳を当て、瞳をきょろきょろさせた。
「あら、まだわからないわよ」
「ううん、絶対女の子。やんちゃなのはロブスだけで充分よ」
「マリエール義姉さんも、もうすぐお見えよ」
「あれ? みんな来るの? 何かあるの?」大きな瞳が一層きょろきょろした。
「何かあるの、って、あなた自分の誕生日忘れたの?」
ぽかんと口を開けたまま、クラウリーナは天井を見つめた。
「あ、そっか、誕生日だったんだ、忘れてた」
「もう一つ、忘れてることない?」
ローリアが、指を立ててクラウリーナに翳した。その慌てように、ローリアは思わず吹き出した。
それほど飲んだつもりはなかったが、頭痛は今朝より少しましな程度だ。五年ぶりの再会にしては冴えない顔になっているかもしれないと、クライスは両手で頬を叩いた。
アーネハース中央駅は、ゴルドレック鉄道が北と南に分れる分岐点であり、一日の乗降客はスペリアード市都駅より多い。旅舎も兼ね備えた巨大な駅舎は、太古にこの地を治めていたクシシュトア一族の古城を模して造られ、左右に高く聳え立つ塔が特徴的である。
薬をもらいにいった鉄警師団本部で、クライスは妙な話を聞いた。ル・パフの主任商務官が、列車内で何者かに暗殺されたというのだ。しかもその便は、スコットが同乗している便でもあった。
若くして連邦政務官にまで上り詰めたスコットにも、周囲の嫉みは無関係ではない。コモン・ブラウ剣将の位称を持つ彼であれば、よほどのことがない限りその身に振りかかる危険はその剣で振り払われるが、彼も商務官同様、どこかの誰かに命を狙われていても不思議はない。
決して薬の苦味にごまかされたのではなく、頭痛は次第に収まってきた。クライスは、五分遅れで到着した列車を出迎えた。
公用客車の乗降口から、まず秘書の姿が見えた。ロベルトは優秀な秘書だ。彼もまさか、親子二代に渡ってクリスレード家に仕えようとは思ってもみなかっただろう。客室乗務員に挨拶をして、スコットが降りてきた。クライスは、彼が気づくまで案内板の脇で佇んでいたが、ロベルトが先に気づいてしまった。ばつの悪そうな笑みを浮かべて、クライスは歩み寄った。
お互いはち切れそうな笑みを湛えたまま、叩き合わせるように握手をした後、軽く抱き合って背中を叩いた。
「お帰り」
「ああ、ただいま」
二人は、少しの間お互いの顔をまじまじと見つめた。たぶん思っていることは同じだろう、だんだん父親に似てきたと。
「ロベルトもしばらくだね」
ロベルトは、一歩下がって深く礼をした。「この度は、戦術武官にご昇進、おめでとうございます」
「ありがとう、ロベルト」
「戦術武官? お前がか?」
「悪いかよ。そういうお前だって、その年で連邦政務官だなんて、生意気なんだよ」
「挨拶だな、クライス。よし、今日はその腐った性根を叩き直してやる。飲みに行くから付き合え」
「おう、望むところだ」
ロベルトが、かぶりを振って鞄を持ち上げた。動力車が吹き出す蒸気が、肩を組み合った二人の足元で躍っていた。
五年間の近況報告は、三杯目でようやく終わった。昨日も演習の打ち上げで飲んでいたことを告げて、クライスは酒器を手で塞いだ。
「お前は、飲めよ」
ブランシュの濃密な果実臭が辺りに漂い、スコットの酒器は赤く満たされた。駅舎の中にある酒場で、連れ立って飲んでいるのは二人だけだった。冴えない上下の平服で飲んでいる立卓の二人が、まさか戦術武官と連邦政務官であると、一体誰が思うだろう。
「連邦軍? 連邦軍か?」
クライスは、酔いが回る前にスコットに訊いておきたかった。スコットは、予期せぬ質問だったようで、目をしばたたかせながら答えた。
「確かに、話としては耳にしたことがあるが、何か具体的な計画や動きがあるわけじゃない。ただ、二年ほど前、王宮から直々に話が上がったことがある。もちろん、非公式でだ」
「王宮から?」
「王宮というより、王議院からだな」
スペリアードの内政を預かる王宮庁は、行政に携わる中央執行部と、立法機関である国会に分れ、国会は王議院と代議院の二院制を採る。王議院が公官資格を持つ王族や貴族出身者で構成されるのに対し、代議院は公官資格を持つ一般国民や地方公官などで構成される。
民主的な政治を謳っている以上、国会の決定は代議院が優先され、王議院議員を初めとする王族や中央執行部は、国民の不満に常に晒されていた。最近ではその矛先が内政を圧迫する膨大な軍事費に向けられ、それを回避する案として連邦軍制度が打診されていた。
「早い話が、軍の存在意義が国民の間で薄れているということだ」
スコットは、酒器に残っていたブランシュを一気にあおった。これ以上、立ち入った話はできまいと、クライスは次の質問を胸にしまった。
「と、父さんが、・・・父が来たんですか?」
師弟は共に困惑し切った表情で、裏庭に佇んでいた。
「あの調子では、・・・このわしでもどうにもできんかもしれん」
「そんなに、怒ってました?」
ミラウは、縁側の床板を指差した。割れてはいないが、木目に沿って亀裂が見える。
「これがおぬしの頭に落ちようものなら・・・」ミラウはかぶりを振って顔を顰めた。
「どうしよう・・・」
クラウリーナは、裏庭の池のほとりにしゃがみ込んでしまった。
「まあ、それは冗談としても、宮試に出場するとなればよほどの覚悟が必要じゃぞ」
「覚悟はできていますが・・・」
「その言葉、誠であろうな?」
クラウリーナは、立ち上がってミラウを見遣った。
「少し待っておれ」
訝し気に縁側に腰掛けたクラウリーナに、ミラウは庵の奥から衣甲を一式抱えてやってきた。
「これを着けよ」
「こ、これ全部ですか?」
「全部じゃ」
身体全面を覆う衣甲を重甲と呼ぶのに対し、身体の一部分、特に前面を覆うものを軽甲と呼び、機動性を重視する戦術に多く用いられる。ミラウが持ってきたものは、上下の重衣甲と兜様の重頭甲だった。本来、コモン・ブラウではその機動性が相殺されるため、装甲の際は軽甲を用い、重甲は着用しない。クラウリーナはますます訝しがった。
「着けましたけど・・・」
クラウリーナの胸から肩、そして腰から腿の外側にかけてを、鈍色の衣甲が覆った。一切装飾のない、極めて簡素な衣甲である。
「それもじゃ」ミラウは、顎で頭甲を指した。
クラウリーナは、渋々その頭甲を抱え上げると、頭からすっぽり被った。顔を覆う面板には、申し訳程度の細長い隙間があり、厚手の革地を多く使った隠蔽用途の頭甲である。
「よし、じっとしておれよ」
慣れない衣甲の重さに足元がおぼつかないクラウリーナを、ミラウは少し離れて目を上下にした。
「け、剣爵様・・・?」
「うむ、これで見分けが付かぬな。よし、付いてこい」
「付いてこいって、どちらへ?」
「来ればわかる」
面板の隙間から覗く目は、不安そうにおろおろしていた。
「よいか、堂々と胸を張っておれよ」
狭い視界にミラウの姿が消えないように、クラウリーナは後をついていった。そのせいで、自分がどこに連れていかれたのか全く見当がつかなかった。
「いいか、ここからは何も話すでない。一切言葉を口にしてはならんぞ。よいな」
「け、剣爵様、一体何を・・・?」
ミラウが肩に手を置くと、クラウリーナは不安のあまり身体を少しびくつかせた。
「覚悟ができているとの先刻の言葉、確かであることを示すのじゃ」
肩に置かれた手は、衣甲越しであるにもかかわらず強い気力が感じられた。
「頼もう!」
ミラウの声に、いくつかの足音が近づいてきた。
「これは剣爵様、ようこそいらっしゃいました」
その声に、クラウリーナは血の気が引いた。
(と、父さん!)
あろうことかミラウが連れてきた先は、父バルバロスが剣術の教導を務めている軍の道場であった。
「突然で相済まんな」
「いいえ、いつでもいらしていただいて結構で・・・、時に剣爵様、後ろの御仁は?」
(や、やば・・・)
「ああ、これは、わしの弟子じゃ。訳あってこのような姿をしておるが、ご容赦願いたい」
「左様ですか。さ、どうぞお上がりください」
クラウリーナは、ぎこちなく一礼すると、案内されるままに道場屋敷へ上がった。
「弟子をお取りになられたとは、はて一向に存じ上げませんでしたが」
「うむ、近年稀にみる素質故、わしがむりやり弟子に引き入れたのじゃが、これがどうにも素行の悪い奴でな、恥ずかしゅうで皆には伏せておったのじゃ」
(もう、好きなこと言って、こっちが喋れないの知ってて)
「で、こやつ調子に乗りおって、剣術宮試に出たいと申してな。それで今日は、バルバロス殿の門下生と一つ手合わせを願おうと参ったのじゃ」
(ち、ちょっと、手合わせってどういうこと?)
「それはそれは、流派は違えど、我がコモン・ラシーヌで何かお役に立てるならば喜んで、お手合わせ致しましょう」
「ありがたい言葉、こやつの鼻をへし折ってくだされ、バルバロス殿」
(なによ、むりやり連れてきたくせに!)
長い廊下を何度か曲がって、クラウリーナとミラウは待合室へ通された。
「しばらくお待ちください。お手合わせの準備を致しますので」
二人を残して、バルバロスは部屋を出た。誰もいないことを確かめて、クラウリーナは頭甲の面板を上げた。
「剣爵様、手合わせってどういうことですか?」
「これ、顔を出すでない」
クラウリーナは、不満そうに口を尖らせてまた面板を下ろした。
「そなたの実力では間違いなく勝てる。案ずるな」
「そういうことじゃなくて、なぜ父の道場なんかに」
「そなたの覚悟を見たいだけじゃ。いつも通りに戦えばよい。例え相手が誰であろうとな」
足音が聞こえて、ミラウは背筋を延ばして素知らぬ顔をした。
「ご用意できました。道場のほうへどうぞ」
「うむ」
ミラウが立ち上がったのに続いて、クラウリーナも立ち上がったが、慣れない衣甲のせいで足元がふらついた。
「衣甲は着けたままでよろしいのですか?」
「ど、どうもこやつは自信過剰のようでな。このくらいの枷がなければ、そちらに不利であろうと申してな」
(い、いいかげんにしてよ!)
「ほう、それは頼もしい。こちらは道場一の手練を用意させていただきました。少々手前味噌過ぎると、お笑いなさらぬよう」
「ほう、それは一体どなたかな?」
「拙息のデュラスにございます」
(げっ、デュラス兄さん?)
部屋から出ようとしないクラウリーナを、ミラウが気づいて近寄った。
「・・・こらっ、はよこんか・・・」
ミラウは他に悟られぬように囁くと、クラウリーナの二の腕を掴んで引っ張り出した。
「どうかなさいましたか?」
「い、いや何でもない。なにせ、衣甲には慣れておらぬ故、いろいろと不具合がな・・・」
「やはり、衣甲は外されたほうがよいのでは、これではコモン・ブラウの真髄が発揮できぬと思いますが」
「お心遣い痛み入る。じゃが、こやつがどうしてもと言うのでな」
(言ってないって!)
バルバロスは、少し怪訝そうな顔で先に行った。
「さ、行くぞわがままな弟子め」
ミラウは、クラウリーナを引っ張って道場に向かった。
(デュラス兄さんじゃ勝てっこないわよ!)
白の上衣と黒い裾広の下衣に身を包んだバルバロスの門下生が、道場の周りを囲んで着座し、中央に一人の剣士が佇んでいた。デュラス・エルレディアは、今年最も剣将の座に近い男と噂されていた。
「剣爵様、しばらくでございます」
短く刈り込んだ髪は既に天に向かって逆立ち、手合わせ用の軽上衣甲はその厚い胸板を覆いきれない。
「うむ、大きくなったな、デュラス坊よ」
挨拶もそこそこに、デュラスはミラウの後ろからとぼとぼとやってきた剣士を睨みつけた。
「どこのどなたかは存ぜぬが、そなたの自尊心、このデュラス・エルレディアが打ち砕いてくれよう」
剣術に長けた父と兄を持ち、ましてやエルレディア家に生を受けた男であるなら、己も剣の道を歩んで当然であろう。素質で言えば、次男であるデュラスが最も強くなれる可能性を持っている。デュラスには、父や兄クライスを超えたいとするあからさまな目標があり、また何よりその目標に向かう野心に溢れていた。
(や、やば、デュラス兄さん本気みたい)
面板の隙間からでも、兄の気迫は見て取れた。
「さ、双方前へ」
バルバロスは、勝利を確信しているようだった。デュラスに二三度頷きかけると、椅子に腰を下ろした。
「剣を持つ前にまず名乗られよ」
木剣を渡そうとするミラウの手が止まった。
「相済まぬデュラス殿、訳あってこやつは名乗ること、ましてや喋ることすら適わぬ身故、ご容赦願いたい」
デュラスの太い眉が歪んだ。
「剣爵様のお言葉であれば、構いませぬ。さ、剣を取られよ」
クラウリーナは、ミラウから剣を受け取った。
「よいか、これに勝たねば、剣の道はないと思え!」
いつにないミラウの厳しい口調が、クラウリーナを奮い立たせた。一聞すれば単なる激励のようだが、クラウリーナにとってこれ以上の言葉はなかった。
(やるしかないのね・・・)
ミラウから受け取った剣を一振りして感触を確かめると、クラウリーナは道場に進み入った。
「これより、手合わせを始める。北方、中部軍市都第十五師団所属、剣士デュラス・エルレディア。南方、剣爵ジュゼ・ミラウ門下生。立会人は、剣爵ジュゼ・ミラウ。決着は、捨剣を以て投了の意を表されよ。双方、礼」
バルバロスの言葉が、道場に凛と響き渡る。中央で相対する二人は、一礼して剣を持った。
「始め!」
その声と同時に切り掛かったのはデュラスだった。あまりの出足の速さに、クラウリーナは上段から振り下ろされた剣を受け流すのがやっとだった。剣を横に構えて牽制しながら、クラウリーナは体勢を整えた。
「ほう、あの強撃を受け流すとは、かなり下半身が柔軟のようだが」
バルバロスの呟きを、ミラウは黙って聞いていた。
「初手で崩せぬとは、俺もまだまだ修業が足りぬのか、それとも・・・」
デュラスは、相手を真っすぐ見遣りながら、ゆっくりと下段に構えた。間合いを取ろうとする相手の動きに合わせて、じりじりと体を変えていった。
「せやっ!」
突きのように見せかけた剣は、斜め上へ鋭く抜けた。
(うっ!)
クラウリーナの手首に、痛みが走った。紙一重で見切ったつもりだったが、かすめた剣の衝撃が手首を襲った。
(足が、動かない・・・)
やはり機動性は半減していた。その上、デュラスの動きが予想以上に速く、なおかつその太刀筋の重さはコモン・ブラウの比ではない。
「衣甲にて枷するなどと、己に自惚れたが失策。覚悟!」
勝機とみたデュラスは、低い姿勢からの鋭い突きを二度三度と繰り出した。
「ええい、この期に及んで牽制などと何をしておる! 相手を見下すような剣は、いずれ己に返ってくるぞ」
バルバロスは、デュラスの剣が相手を牽制しているように見えていた。それは、他の門下生にもそう見えただろう。
「ほほう、やりおるわい」
ミラウは、クラウリーナが突きを受けるのと同時に、僅かに体を反らして見切っていることに気づいていた。
「ば、馬鹿な?」全く手応えのない己の剣に、デュラスは思わず身を引いた。「・・・父上をもたじろがせた、この俺の突きが効かぬというのか!」
(さすがデュラス兄さん、強いわ。でもね・・・)
デュラスの速い剣を受けていたおかげで、クラウリーナは衣甲の重さに身体が慣れ始めていた。
(これで終わるわけにはいかないのよ!)
クラウリーナは、切っ先を真っすぐ相手に向けて突き出すように構えた。
「おおっ、あれはブラウ・フローラ!」
驚愕の声を漏らすバルバロスだったが、それはすぐに落胆へと変わった。デュラスの一瞬の気の乱れをついて、クラウリーナの繰り出した剣がその眼前に突き付けられていた。
「ま、参った・・・」
デュラスは、ゆっくりと剣を手から放した。
「それまで!」
呆然と道場を見つめているバルバロスに代わって、ミラウが勝ち名乗りを挙げた。
「こ、この俺が、負けた・・・」
デュラスは、手放した剣を拾おうともせず、道場の只中に跪いていた。他の門下生達は息を飲み、微動だにする者さえ一人もいなかった。
「あれが、噂に聞くコモン・ブラウの奥義・・・。剣の切っ先と相手の目線を一直線上にし、相手が間合いを探るその一瞬をついて突きを繰り出す。戦いの中で常に冷静でなければ・・・、いや、心身ともに研ぎ澄まさなければ到底そんな体勢は取れまい。あれがブラウ・フローラか・・・」
バルバロスは、地面に拳を叩きつけている我が子の姿を見ながら、今目の前で起こった一部始終を頭の中に思い起こしていた。
「装甲してなおあの俊敏な動作といい、あの奥義といい、さすが、一撃必殺を極意とするコモン・ブラウ・・・。剣爵様、ぜひあのお弟子様の名をお聞かせ・・・、剣爵様?」
既にミラウも弟子の姿もなく、道場内の誰一人として、いつ彼らがいなくなったのか気づく者はなかった。
「は、はよう来んか」
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ」
運河の土手を、逃げるように走っていく二つの影があった。
「お前、本当にそれだけのために帰ってきたのか?」
そう言われたスコットは、怪訝そうなクライスを見返した。
「約束したからな、十八の誕生日は何があっても祝うって。天に捧げた剣に誓ったんだから、破るわけにはいかないだろ」
「そりゃそうだけど」
クライスは、もう一度怪訝そうにスコットを見た。急行列車は、昼過ぎには市都中央駅に到着する。食堂車の末席に差し向かいで座っている二人は、このまま客室に戻らずに到着まで時間を過ごすことにしていた。
「・・・あのな、先刻からお前のその視線に、嫌な感じの含みがあるんだがな」
「べ、別に、妹の誕生日なんだから、祝ってくれるならそれは歓迎するが・・・」
「が? が、なんだ。何が言いたい」スコットの食叉を持つ手が遂に止まった。「俺に下心があるとでも言うのか?」
「お茶はいかがですか?」急須を持ったロベルトが、食卓の上に現われた。
「・・・ああ」
宙に浮いていた肉の切れ端を口に運んで、スコットは食叉を皿の端に置いた。
「クライス様は?」
「あ、ありがとう、ロベルト」
わざわざ食卓へ身を乗り出してくれたロベルトに、クライスは二重の感謝を述べなければならない。
「・・・お前の詮索もわかるが、約束は約束だ、破るわけにはいかない。ついでに言えば、あんなじゃじゃ馬を娶る気はないよ。悪いな、クライス」
ばつの悪い笑みを浮かべて、クライスは熱い茶を飲み干した。
「もういい加減、男言葉で話すのは治ったんだろうな」
「クラウのことか?」
スコットは、流れる車窓の景色を遠く見つめていた。先刻までの鋭い眼差しは消え、昔を懐かしむように顔を綻せた。
「まだ、夜中に怖い夢を見て泣き出したりしてるのか? クライス、それでお前いつも添い寝してたよな」
クライスはあえて答えず、ただ微笑んだ。どうやら、スコットの中でクラウリーナはまだ十三歳のままでいるようだ。
「今でもお前がうらやましいよ。たくさん兄弟がいて、家族がいて」
「これはこれで、大変なものがある。俺だって、一人身のお前がうらやましく思える時だってあるさ」
「隣の庭はなんとか、だな」
「全くだ」
酒器の搗合う音を聞きながら、出番の終わったロベルトは食堂車を後にした。
ガルベル・モーゼスは、高笑いした迂闊さを省みた。
「・・・ようやく、その時が来たというわけか」
恰幅のよい身体は濃紺の公官服に包まれ、賑やかな胸章が誇らしげに光っている。モーゼスは、大きく息を吐き出すと、顕になった頭頂部を一頻りさすった。
「待ち惚けを食うのではないかと、冷や冷やしておったものを」
王宮を取り巻くように立てられた政府庁舎のうち、王宮に最も隣接している連邦政務局庁舎の局長室からは、荘厳な佇まいを見せる本宮の塔が見える。
「待ち惚けとは、えらく大層ですな、モーゼス殿」
連邦軍務局局長ユリアス・キュロアは、報告書を手に取って再度目を通した。上背のある身体を窮屈そうに折り曲げて、片方の手は椅子の肘掛けからだらりと下がっている。その切れ長の目からは、神経質そうな眼差しが書類に注がれていた。
「確かに、こちらが先では洒落にもなりますまい」
「向こうは世継のことなど考えずに、戦後の大陸復興のために全精力を注ぎ込んだのだ、さぞかし寿命を縮めたことであろうて」
「モーゼス殿、もはや亡君とはいえその功績は偉大、もう少し言い様があるのでは?」
モーゼスはただほくそ笑んで、自席に腰掛けた。弛んだ顔には、いつまでも薄らと笑みが浮かんでいた。
「さて、時が来たのなら事は早急に運ばねばならんが」
「王宮が動きだす前に、軍務会議で全武官を召集致そう。連邦軍の話は、その場で出すつもりだ」
「良好だ、キュロア殿。連邦会議までに全てを整えねば、今までの我等の努力は水泡に帰す」
「させんよ。軍を抑えれば事は容易い」
「そのためにも、連邦軍の設立は最重要事項だが、そうなれば王宮側も黙ってはいまい」
「案じなさるなモーゼス殿。求心力を失った王宮など、もはや幾許の力もあるまいて」
「そうであればよいが・・・」
モーゼスはもう一度王宮を見遣った。誰彼の思惑など知る由もなく、緑に囲まれて佇む王宮の塔がそこにあった。
「ところで、この最後の一文、どうなさるおつもりで?」
「最後の一文とな?」
キュロアは、腕を延ばしてモーゼスに報告書を届けた。途端にモーゼスの顔色が豹変した。
「ば、馬鹿な、侍従長が行方不明だと?」
「やはり読んでおられなかったか。手放しで喜ばれるからおかしいとは思っていたが」
「ダイストーには監視を付けていたのだぞ」
「報告には何者かにやられたとあるが」
「狙いはやはり遺言状、ということはダイストーに託されているとみて間違いないな。表に出る前になんとしても押さえねば」
「こちらで動かせる部隊がある。それでダイストーを探させよう。万一の時は、力ずくも止むを得まい」
「ダイストー奴・・・」
モーゼスの手の中で、報告書の下端が握り潰されていた。
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