1996
私立普門学園高校 #4 ~激闘!キッチンスタジアム~
七十二パーセント。本学園生徒の昼食時における食堂の使用率である。
二百名収容可能な、一見無謀とも思える巨大な食堂でさえ、昼休み中は席の空くことがない。
二百五十パーセント。
本学園、料理部の部員増加率である。
世間の流行は、思わぬところで波及効果をもたらすもので、いずれの数字もそれによるところのものである。
料理部部長、二階堂司は、この機に乗じて部の昇格を企んでいた。
本学園の部活動は、文化系・体育系という分類だけではなく、それぞれに一部・二部という分類が存在する。
一部は、学園の実益や運営に直接貢献しているクラブ群で、設備や予算の面で優遇される。精力的且つ恒常的な活動を要求され、その内容が思わしくないときは、学園側から解散を要求されることもある。
これに対して二部は、趣味的な色合いの濃いクラブ群である。大学のサークルレベルと考えてもらって差しつかえないだろう。従って活動費の一部は、部員が負担しなければならない。
料理部は、現在その二部リーグにある。部員も大幅に増加した今こそ、昇格のチャンスだと二階堂は睨んでいた。
残り少ない任期中に、その布石だけでも最低限敷いておきたい。粘り強い二階堂の説得は、部活評議会はおろか、学園総会までも動かしたのだ。
フランス料理店を経営している父の助けもあって、計画はシナリオ通りに進んでいった。まず、知り合いのコック監修によりメニューを一新、新たにカフェテリア方式を導入した。そして更に学園側は、食堂の増設を計画。そして二階堂の最終目標である、料理部による食堂運営を、段階的にではあるが認める方向へ話が進んでいった。
こうも学園側が動いた背景には、やはり先の数字を無視できない現状があった。料理部による食堂運営が軌道に乗れば、業者委託を見直すことで計上される経費は、格段に削減できる。もちろん、部活動の推進にもなる。
学園にとって、料理部にとって、そして二階堂にとっても、機は熟したと言えるだろう。
「手ごたえありですね、二階堂部長」
遠山賢司副部長は、もう昼休みも残り少ないというのに、そのどでかい腹に見合うだけの昼食をまだ採れていなかった。北海の幸ラーメンに天津飯、ミートスパゲティにたこ焼き、先刻デザートにマンゴスチンシャーベットを頼んだばかりだ。
「・・・エンゲル係数の高いやつめ」
まだ混雑が続く食堂を見渡しながら、二階堂はカフェオレとベニエのメイプルソースをつまんでいる。眉の辺りまで垂らした前髪を時折掻き上げて、白いカップにすっと手を延ばす。
育った環境のせいもあるだろうが、どことなくその仕草には気品がある。悪く言えば、ただ気取っているだけだが、遠山といると余計際だってみえる。
「ん部長、ぐぉ存じですくぁ・・・」
「食べるか喋るかどっちかにしろ」
「んぐ・・・、先刻、並んでるときに聞いたんですけど、なんか、交換留学とかで、生徒が一人来るそうですよ」
「どこから?」
「大阪です」
「そういうの、留学っていうのか?」
「さあ・・・」
別にどうでもいい話なので、二階堂は付き合うのを止めた。しかしそれにしてもこいつはよく食う。料理部の副部長でなければ、ただの大食らいだ。副部長でなくてもそうだが。
ただ食うだけなら、こんなやつさっさと部から追い出したいが、二階堂は彼の味覚を買っていた。だしやスープを一口飲んだだけで、材料や加えた割合までピタリと当ててしまう。彼がYESと言う料理は、必ずヒットするのだ。二階堂の店も、少なからず恩恵を受けている。
午後の授業開始の予鈴がなって、早食いしだした遠山を置き去りにして、二階堂は食堂を出た。
フランス歩きの二階堂が廊下を行く。
『うわあっ!』
倒れ方は普通だった。
「ああ、す、すんまへんな、大丈夫でっか?」
聞き慣れない言葉に、二階堂は一刻も早くその言葉の主を確認したかった。
「ちょっと、急いでたもんやさかいに、どこも怪我したはらしまへんか?」
二階堂は倒れ込んでいるにもかかわらず、その生徒との目線はほぼ平行だった。
「だ、大丈夫です」
立ち上がるにつれ、えらく背の低い生徒なことがわかった。が、生徒ではなかった。制服が微妙に違っていた。型は同じだが、部分で使われている黄色は、本学園では使用されていない色だった。
「ほな、急ぎまっさかいに、失礼します」
なんていろんな意味で濃い奴なんだろうと、後ろ姿を見て二階堂は思った。言葉も歩き方も、顔のパーツも、何もかもだ。
「・・・あいつか?」
早足で階段を下りながら、二階堂はどことなく引っ掛かるものを感じていた。
書類をぱらぱらと捲りながら、教頭はずり落ちた眼鏡を人差し指で直した。
「遠いところを御苦労だね」
「何をおっしゃいますやら、教頭はん。これもお互いの親睦のためでんがな」
「あ、ああ、そうですね・・・、で、来週から二週間、授業は2のA組と一緒に受けてもらうとして、クラブのほうは、これでいいのかい?」
「へえ、大阪でやってますさかいに、できたらおんなじクラブでやらしてもろて、そちらさんであんじょうやってくれはると・・・」
「ああ、よろしい、後ほど部のほうに紹介しておこう」
「それで、あのう、できれば学園のほう今日中に見ておきたいんでっけど・・・」
「それは構わないが、では放課後まで誰かに案内させよう」
「いえいえ、そんな、みなさんのお手を煩わすわけには、わて一人で行きまっさかいに。あの、食堂はどちらに?」
港真由未は、今になって少し後悔していた。
彼女が所属するイベントプランニング部は、既存のクラブとは一線を画し、学園で行なわれる全てのイベントにおいて、独自の権限を与えられて参画する。
生徒会長選挙を無事終えたばかりというのに、もう六月のイベント案を今日中に決定しなければならない。
このイベントが、部長としての任期最後のものとなるので、そのプランは恒例により真由未自身に一任されている。
「ああっ」
真由未の口から、苛立ちともとれる苦悩の溜息が漏れた。
いつもくるんとなっているポニイテイルが、今日はいささか威厳がない。
「・・・どーしよー」
湯水の如く湧いていたアイデアも、今日に限ってすっかり枯渇してしまっていた。
部室では、全部員がすぐにでも動けるように待機している。放課後の食堂で、一人真由未は過去に覚えのないほどのプレッシャーに嘖まれていた。
「・・・あー、もう」
独り言が多くなっている自分をごまかすように、真由未は冷めきったエスプレッソを飲み干した。
「・・・なんや、このたこ焼きは。人をおちょくるのもええかげんにしいや」
聞き慣れない言葉に、真由未は思わず振り向いた。
「・・・ちょっと、食材見せてもらうよってに」
一人の生徒が、厨房に立つ調理人に詰め寄っていた。真由未は、傍観を決め込んだ。
「なんや、これ!?、たこ焼きにネギ入れるアホがどこにおんねん。生地の風味がとんでしまうやないか。それにこの生地や。粉を溶くだしの量が少ないがな。こんなんやったら、焼き上がりがホットケーキみたいになってまうで。・・・天かすは?、天かすはどこや、あらへんやないか」
「はあ?、てん、かす?」
「天かすや、天かす。あんたらがたぬきそばに入れるもんや」
「ああ、揚げ玉ね」
「揚げ玉ね、やあるかい。こんなたこ焼きつくられたらたまらんな。おい、責任者どこや、責任者呼んでこい!」
食堂にざわめきが起こっていった。怪訝そうな顔をしながら、調理人は受話器を取った。
「・・・面白くなりそうね」
真由未は、ほくそ笑んでいる自分にかぶりを振った。
「どうか、しましたか?」
遠山を従えて、二階堂が食堂へやってきた。
「君は・・・」
「・・・お、なんや、さっきのにいちゃんかいな」
厨房のカウンターを挟んで向かい合う二人に、真由未は戦慄さえ覚えた。
「あんさんが、ここの責任者だっか?。どうみても、教職員にはみえまへんけどな」
「私が責任者です。料理部部長、二階堂司。君は?」
「そちらが名乗らはったんやったら、こっちも名乗らんと、しょうがあらしまへんな。わては、大阪普門学園高校・料理部、黒門太一」
「・・・大阪から交換留学で来たという、物好きな生徒は君だったか」
「えらいお言葉でんな、部長はん。ここのメニューは、あんさんがこしらえはったんで?」
「ああ、私が監修したが、それが何か?」
「あんなたこ焼き食わされたら、かないまへんな。大阪のたこ焼きに、えらい泥塗ってくれはったもんや」
「・・・ふふ」
前髪を掻き上げて、二階堂が不敵に笑った。
「何がおかしいんや、部長はん」
「・・・ネギが入ってて、だしの量が少なく、天かすが入ってないと言うんだね?」
「あ、あんさん、知っててつくってんのんか?」
黒門の太い眉が、捻れて歪んだ。
「確かに、大阪のたこ焼きと違うことはわかっている。しかし、ここは大阪ではない。この土地に合った味覚に敢て変えることも、必要だと思うのだが、違うかね?」
「・・・ああ、そやな。確かに、それも必要かもしれん。せやけどな、たこ焼きをそないにつくるっちゅうことは、わてらのプライドを傷つけられてるのも同然なんや。この落とし前は、どないつけるっちゅうんじゃい!」
カウンターを平手打ちした黒門にも動じず、二階堂は静かに佇んで腕組みをしたままだ。
「・・・どないつけましょうか、黒門はん?」
「なんやと!?、けったいな大阪弁使いなはんな。それが一番腹立つんや」
対峙する二人に、ポニイテイルが割って入った。
「その落とし前、私につけさせてくれないかしら?」
水を得た魚のように微笑む真由未に、二階堂も黒門も呆気にとられるしかなかった。
『御苦労様です、港部長!』
その笑顔に、待機していたEP部員一同は色めきたった。
『料理対決?』
「そう。大阪から交換留学でやってきた料理部の生徒と、うちの料理部部長が対決するの。そうね・・・、鉄人方式でやりましょう」
『で、いつですか?』
「明日よ」
『ええっ!!』
「山下君、放送部に行って、機材と人員を確保して。台本ができたら、打ち合わせに行くから、それまでチーフ押さえといて。遅くなるかもしれないから逃がさないでよ。木田君は、エンターテインメント部に行って、MC一人押さえて。嫌味のないのお願いね。試食人も要るわね・・・、田中さん、適当に三人ほど押さえといて、任せるから。公平にね。あと、西山君、篠崎さん、高田君、中井さん、今から台本つくるから手伝って。残りの人はそのまま待機、台本あがったら、セットの仕込みするからよろしくね」
ポニイテイルにも威厳が戻った。
「よし、解散!」
港真由未、最後のプロデュースイベントが、号令とともに今、動きだした。
「部長、少し、早計かもしれませんよ」
食堂に隣接している料理部の部室で、遠山は言いにくそうに切り出した。
「お前までなんだ遠山、大阪もんの味方する気か?」
「ご存じないんですか?、あの生徒」
「知るか、あんなけったいなやつ」
二階堂は、思わず口を押さえた。
「・・・うつったかな」
「私も、名前しか知らないのですが、あの黒門太一という生徒は、大阪料理部の精鋭中の精鋭で、あの神田川も一目置くほどの腕前とか。以前、全国高校クッキング選手権に出場したときに、あまりの腕の良さに勝負にならず、プロデューサーが頭を下げて辞退してもらったそうです」
「ふん、他愛もない」
「それだけではありません。大阪校では、既に食堂が料理部によって運営され、タウン誌のグルメマップに載るほどの盛況ぶりなんです。この勝負、たとえ二階堂さんでも、勝てる保証は・・・」
「ばかを言うな!、この私が負けるとでも言うのか!!」
遠山は、いきり立つ二階堂の二の腕を掴んだ。
「いいですか、二階堂さん。奴は二年生ですが、部の要職に就いていません。その予定もないんです。ということは、奴より優秀な料理部員が、他にいるということなのです」
「・・・あいつが、下っ端だと?」
「そう考えたほうが賢明でしょう。今一番危険なのは、自分の腕を過信することです。相手を過小評価するのもまずいでしょう。奴にどれだけの力があるのか。大阪人は、食と笑いにかけては誇りを持っています。明日は、気を引き締めてかからないと、コンクリ詰めで南港沈められまっせ」
遠山お前もか、と思いつつ、二階堂は大きな溜息をついた。
「・・・なんとか、間に合ったわね」
教育委員会には内緒だが、EP部の徹夜の作業によって、食堂はキッチンスタジアムに生まれ変わった。どこで聞き付けたのか、折角の土曜休日だというのに、グラウンドには数十名の生徒がたむろしている。
「客入れは考えてなかったけど、まいいわ。整理の人員を割いといて」
放送部も同様、徹夜のリハーサルを繰り返して準備は万端、バトル開始の時刻までは仮眠タイムとなった。
『俺達もこれが最後さ。気合いが入らないわけねえよ』
放送部中継スタッフは全て三年生、ベテラン揃いである。真由未も副調整室に詰めて、ここから勝負の行方を見守る。
時が来た。
鹿賀丈史に負けず劣らぬMCが、乗り遅れた貴公子みたいな派手な衣装で登場する。
「・・・嫌味のないの、って言ったのに・・・」
『ようこそ、我がキッチンスタジアムへ。今日の対決を迎えることは、私も非常に心待ちにしていました。それでは早速ご紹介しましょう、いでよクッキングファイター!』
調理着を着込んだ二階堂と黒門が、揃ってスモークの中から現われた。
「気合い入ってるわね」
『そりゃそうですよ、なんたって、みんな最後なんですから』
「そうよね・・・」
参考書を広げているスタッフを見ながら、真由未はしみじみ頷いた。
『これはまさしく代理戦争以外の何物でもありません。各校を代表する料理部員が、剣を包丁に替え、盾をまな板に替えて戦います!』
嵩高いコック帽も様に、前掛けの紐を絞め直す二階堂。“心”と書かれた鉢巻きをして、なぜか晒しに下駄履きの黒門。厨房の中の二人が、激しく睨み合う。
『今日のメニューを決めるにあたって、私は非常に悩みました。五月ももうすぐ終わり、それからはじめじめした天気が続くでしょう。梅雨です。梅雨は、梅の雨と、書きます。さあ、今日のメニューはこれだあっ!』
カウンターの上に置かれた白い布を、MCがひっぺがす。
『今日のメニューは、う・め・ぼ・し』
二人の酸っぱい表情が、モニターに映しだされた。
「シ、シャレよ、シャレ」
目を細めて振り向いたディレクターに、真由未は愛想笑いでごまかした。
『ア・レ・キュイジーヌ!!』
あるいは手を打ち鳴らし、あるいは顔を叩いて、戦いの火蓋は切って落とされた。
『さあ、いよいよ始まりました、料理対決。双方、同じ分量ずつ梅干しを取り分けて、それぞれキッチンに入りました。申し遅れました、私、実況の放送部部長、鎌田久信。そして解説には、料理部副部長、遠山賢司さんをお迎えしております。遠山さん、お気持ちはわかりますが、公平な解説を一つよろしくお願いします』
遠山の膨れた顔が、モニター一杯に広がった。
「なんで鎌田君があそこにいるのよ?」
『ど、どうしてもやらせてくれって、きかなくて・・・』
目を細める真由未に、ディレクターは愛想笑いでごまかした。
『予算の関係上、助手はおりません。食材も冷蔵庫にあるものだけです。従って、早いもの勝ちということにもなるかと思いますが、おっと、二階堂選手、早速冷蔵庫から、何やら取り出している様子ですが・・・』
『鎌田さん』
『はい、どうぞ、山口さん』
『はい、えー、二階堂選手ですが、えー、冷蔵庫から鶏肉、レモン、キャベツを取り出しました』
その様子が、モニターに捉えられている。
『ど、どうしても、やりたいって、副部長も・・・』
真由未は、細める目もなくなった。
『香味揚げでもつくるんじゃないでしょうか』
『なるほど。一方、黒門選手のほうですが、おや、米ですか?、おっと、袋ごと持ってきましたが、御飯を炊くんでしょうか?』
黒門の不可解な行動に、副調整室もざわめきだった。
『なに考えてんだ、あいつは?』
『そういえば、腹減ってきたな』
真由未は、ひらめいたことがあったが、今は胸のうちにしまった。
『おっと、米を研ぎ終わって、これは相当な量です。備え付けの釜を全て使って、どうやら黒門選手、炊き出しでも始めるんでしょうか』
『まさかおにぎりつくるってんじゃないでしょうね』
『その間にも、二階堂選手は素晴らしい手つきで、鶏肉をさばいております』
やはり、台所に慣れている方が、使い勝手という点で有利ではある。
「・・・勝負あったな、黒門・・・」
不慣れな板場では、百パーセント力を発揮できないのは、残念ながら事実だ。しかし黒門は、既に勝負に出ていたのだった。
「・・・部長はん、浪花のド根性、思い知りなはれ・・・」
“心”と書かれた鉢巻きが、まるで黒門の料理魂のようで、真由未には恐ろしく思えて仕方なかった。
『これは一体、どういうことでしょうか。御飯を炊き始めた黒門選手ですが、その後はじっと立ちすくんだまま動こうとしません。遠山さん、これは一体・・・』
『いや、私にも皆目見当がつきません。まさか本当におにぎりをつくるのでは』
『その隙に、おっと、二階堂選手、二品目にかかり出したようですが』
モニターに囲まれた時計が、三十分経過を示した。
黒門の依然として奇妙な行動に、副調整室でも様々な意見が飛び交った。
『やる気あんのか?、あいつは』
『勝ち目ないから投げてるんじゃねえか?』
『なにが食い倒れの大阪よ』
「・・・いいえ、・・・この勝負、かなりもつれそうよ」
真由未の言葉に、ディレクターからスイッチャーからタイムキーパーから、全てのスタッフが振り向いた。
『ど、どういうことですか?、港さん』
「・・・彼は、黒門くんは、もう勝負に出ているわ。残り十五分に、恐らく賭けている・・・。逃さないでね」
ディレクターは、首を傾げながらもモニターに向き直った。
『さあ、あと十五分です。黒門選手、依然として微動だにしません。じっと米が炊き上がるのを待っているようですが、おっと、炊き上がったか?、黒門選手動きだしました』
『鎌田さん、塩水の入ったボールが用意されています』
『塩水、ですか?』
『はい。あとですね、海苔ですね』
『やはり、おにぎりだ』
『どうやら、黒門選手はおにぎりをつくるようです。まさに炊き出しの様相を呈してきました。が・・・、黒門選手また動きを止めました。これは一体どうしたんでしょうか?』
『うーむ、恐らく蒸らしをかけていると思いますが』
『炊き上がった御飯を蒸らしているわけですね?』
『ええ、ですが、もう時間のほうが・・・』
真由未は、時計に視線を移した。
「あと十分・・・」
『おいおい、一体どうなってんだ?』
『港さん・・・』
ディレクターが、困惑した様子で椅子の背凭れを目一杯傾けて振り向いた。
「大丈夫よ、・・・大丈夫」
とは言ったものの、真由未もいささか心配になってきた。あと五分あまり。おにぎりをつくるにしても時間が無さ過ぎる。
『おーっと、ようやく黒門選手・・・、あ、な、な、なんと内釜を、熱い内釜を素手で掴んだあっ!』
『ああっ、こ、これはっ!』
副調整室が、一斉に色めきたった。
『・・・み、見えない、て、手が見えない!』
『な、何だ、何が起こったんだ!?』
『な、なんてスピードなの!』
握った拳に、真由未は思わず力をこめていた。
『み、み、みるみるうちに、お、おにぎりが、山のように積まれていきます!』
『あ、あの滑らかな腕の動き・・・。通り道に全ての具を配置し、それらを最短距離で結んでいる。肘から先の動きに全く無駄がない・・・。そして、い、一瞬のうちに梅干しと海苔を・・・、か、神業だ・・・』
梅干しの乗った皿から、赤い線がうっすら見えている。それが、黒門が取っていく梅干しの残像であることがわかったとき、真由未はあまりの悪寒に立ち上がっていた。
僅か五分足らずで、百人分のおにぎりが山と積まれた。黒門は、静かに鉢巻きをほどいた。
「お疲れさん。これ、みんなで食べてや」
試合終了の銅鑼が鳴った。
二階堂は、包丁を持ったままで立ち尽くしていた。まるで、ゴーゴンに睨みつけられたように。
『し、試合終了です。二階堂選手、料理をつくりきれませんでしたが、お互いに一品ずつ完成しています。・・・遠山さん、この勝負どうでしょう?』
『あれを見てください。二階堂部長の負けでしょう。・・・残念ですが』
試食人は、進行をそっちのけでおにぎりを手に取っていった。
「・・・ま、負けた・・・」
肩を落としてうなだれる二階堂に、黒門が歩み寄った。
「部長はん、そうがっかりしなはんな。わてはな、はなっから勝負する気などあらしまへんでしたんや」
「・・・で、では何故?」
「あれを見なはれ」
二階堂が顔を上げると、観客やスタッフが、おいしそうにおにぎりをぱくついていた。
「料理に、勝ち負けなんかあらしまへん。料理はな、そんなもんやおまへんのや。・・・食べてくれる人のために、一生懸命心をこめてつくる、それが料理や。・・・あの、満足そうな顔を見なはれ。わては、あの人らのために、料理をつくったんや」
おにぎりの山は、瞬く間になくなった。
「・・・部長さん、あんたの腕は一流や。マネージメントの筋も、ええもん持ってはる。どこへ行っても十分通用するわ。せやけどな、料理の心だけは、どんなことがあっても、忘れんといてほしいんや。これが、大阪料理部からのメッセージや」
「黒門君・・・」
「食堂のメニュー、ケチつけるの苦労しましたで。あんな完璧なメニュー他に知りまへんわ」
二人の堅い握手を、モニターが捉えていた。
「・・・これで、全部終わったのね」
真由未は、まだ誰もいない部室を眺めていた。目まぐるしい二年半、成功よりも失敗のほうが多かったような、そんな気がしていた。だがそれは、ただの謙遜に過ぎない。
「あのお・・・」
次期部長が、粘り着くような低姿勢で部室に入ってきた。
「あら、どうしたの?」
「はあ、・・・あの、すごく言いにくいことなんですが・・・」
「何なの、言ってよ」
「はい、・・・六月の、イベント、なんですけど・・・」
真由未は、目が点になった。
「やったじゃないの、土曜日に」
「はあ、・・・でも、六月のイベントなもんで、あの・・・まだ、五月なんですよ・・・」
点になった目が、とうとうなくなった。
「ま、また考えるの?」
「・・・はい、そうなりますね・・・」
真由未は、言い様のない虚脱感に襲われながら、這う這うの体で食堂にたどり着いた。
「あーあ・・・」
また一からやり直しである。
「おやおや、港はん、どないしはりましたんや?」
厨房から、濃い顔が覗いていた。
「おにぎり、食べはりますか?、精出まっせ」
「ええ、いただくわ」
「へえ、おおきに毎度。おにぎり一丁!」
「あいよ!」
厨房の奥で、フランス鈍りのまだ少し気取った奴が腕を捲った。
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