1996

私立普門学園高校 #3 ~スプリンターになれなくて~

「しかしですね、先生・・・」
 目の前を遮られた手に、菅原小百合は抗議の口火を吹き消された。
「君の言いたいことは尤もだ。が、しかし、こちらも結果が欲しいんだ。ここ数年の陸上部の不振は、君が一番知っているだろう」
 腕組みをしたままの顧問の表情は、眉を顰めて苦虫を噛みつぶし尽くしたようだった。
「それはわかりますが、かといって、むざむざ伸びる芽を摘まなくても」
「芽は伸びるかもしれんが、・・・花が咲いて、実がなるという保証はどこにもない」
「そんな・・・」
 やり場のない怒りが、小百合の両の拳を震わせた。
「だからだ、今のうちに育てておく必要があるんだ。・・・わかってくれ、菅原」
 顧問は立ち上がると、小百合の肩を掴んだ。
「・・・最後まで、辛い思いをさせてしまったな。すまん」
 静かに引戸を閉めて、顧問は部室を出ていった。
「・・・結果がどうだって言うのよ」
 思わず机に打ち付けた拳に、小百合は自戒した。

「きついなあ、土曜の練習が一番きついぜ」
 日下部厚志は、駅前が見下ろせる窓際のベンチシートに倒れ込むように腰を下ろした。尖った前髪も元気なさそうだ。
「あれくらいでなんだ、私はまだ物足りないぞ」
 三人分のオーダープレートをテーブルに置くと、立花幹男はどでかい腕をぐるぐる回した。
「危ねえよ、ったく。クエント人みてえだな」
「だから、槍投げが一番得意なのだな」
「わかんねえなあ、こいつはよおっ」
「あれ、あの二人は?」
 三浦あかねは、三人分のドリンクを乗せたトレイを慎重な動作でテーブルに置いた。
「まだ下で注文してんじゃねえのか?」
「仲いいわね、あの二人」
「中学が一緒なんだってさ」
「ふーん」
「なんだよ、その『ふーん』ってのは」
 あかねは、無視するかのようにストローの袋を吹き矢のようにして飛ばした。
「もうっ、早くしなさいよ、先行くわよ」
「ち、ちょっと待ってよ、今月ピンチなんだ」
 財布とにらめっこしている迫田俊に、足蹴りを食らわさんばかりに島崎美耶がせっついている。
「今月ったって、もう終わりでしょうよっ」
「あ、それもそうか、・・・すいません、Bセットください。ポテトLで」
「あーもうイライラするっ」
 螺旋状の階段から、トレイを持ったぷんぷんの美耶が現われた。
「あれ、迫田は?」
 美耶は、疎ましそうに親指を後ろに向けた。
「あいつほど性格と種目がぴったりしてるのはないぜ」
 隣の幹男を見て、厚志は前言を撤回した。
「ねえ、美耶ちゃんと迫田くんて、同じ中学なの?」
 切るか伸ばすか、両肩に束ねた迷いの髪をいじりながら、あかねが訊いた。
「そうよ。小学校も半分一緒なの」
「半分って?」
「向こうが転校してきたのよ。二軒隣に」
 まだ疎ましそうな顔をして、美耶はストローを蓋に突き刺した。
「ふーん・・・」
 厚志が、何か言いたそうに身じろいだが、あかねがこっちを向いたのでドリンクに手を延ばしてごまかした。
『お待たせしました』
 四人分のオーダーが届いても、迫田はまだ来なかった。
「遅いなあいつ、何やってんだ?」
「そのうち来るわよ」
「見に行こうか?」
 パン屑の付いた手を払って、幹男が立ち上がった。
「も、もう食ったのか?、スーパースペシャルウルトラビッグデラックスサンドだぞ?」
「いいわよ、立花くん。ほっときゃいいのよ」
「あたし見てくる」
 あかねが細い身体をくねらせながら、席の間を擦り抜けていった。
 ダブルエッグベーコンバーガーをかぶりついたまま、美耶は横目でその姿を捉えていた。
 突っ立ったまま邪魔な幹男を引っ掴んで座らせると、厚志は美耶とあかねを見比べるようにした。
「・・・ふーん」
 階段の辺りで、小さな悲鳴が聞こえた。
「あ、ごめんごめん、大丈夫?」
「うん、あんまり遅いから見にきたの」
「隣でおばさんが財布ひっくり返しちゃってさあ・・・」
 視線を窓に向けた美耶を見て、厚志は手を挙げた。
「何やってんだよ、迫田」
「おう」
 幹男が二人分の席を陣取っているので、俊は美耶たちの並びに座った。
「・・・ごめん、美耶、あとで五百円貸して」
「なんでよ」
「ねえちゃんに買い物頼まれてたの忘れてた」
「あーわかったわかった、あとでね」
 あかねの視線の色が変わっていくような気がして、厚志は話を切り出した。
「迫田、膝はどうなった?」
「ああ、別に骨にも異常ないし、大したことないみたいだよ」
「そうか。でも、何も俺が助走し始めたときに脇で転ぶことはないよな」
「だから悪かったって」
 それでなくても下がりぎみの目尻が、余計情けなく俊は手を合わせた。
「ったく、サコちゃんは本番に弱いんだから」
「うるさいな、踵踏まれりゃ誰だって転ぶよ」
「サコちゃんだけよ、成績悪いの。立花くんなんか、投擲四種目に出て、全部で新記録なのよ」
「こ、こいつは別格だよ」
 厚志は、誇らし気にポーズを決める幹男を押さえ付けた。
「あかねちゃんも、今年からハードル始めたのに部内記録更新したし、日下部くんも、もう少しで自己ベストだったのよ」
「そう言う島崎も、記録は平凡だったけど、菅原部長が絶賛してたし」
 我関せずといった表情で、俊はテリヤキダブルつくねバーガーをぱくついている。
「ちょっとぉ、聞いてるの?」
「そんなに責めないで、美耶ちゃん。迫田くんだって、一生懸命やったんだから」
「嬉しいな、そう言ってくれるの、三浦さんだけだよ」
 言いかけた言葉を、美耶はドリンクと一緒に飲み干した。
「でもな、毎年一人くらいコンバートされる部員がいるんだぜ。そうなると・・・」
「な、なんだよ」
「どうするよ、他の種目をやれとか言われたら」
「え、俺?」
 自分を指差した俊に、厚志は大きく頷いた。
「そうよ、成績悪いのサコちゃんだけなんだから、一番可能性あるのよ」
「やだよ、俺ずっと長距離やってきたのに、今更他の種目なんて」
「ずっとやってきたとかいうのは関係ないんだよ、迫田。要はいい結果を出せるかどうかなんだよ。きついけどな」
「私も、嫌だな」
「だからお前は別格だっつーの。クラブを替えろ、クラブを。バトリング部とか」
 俊のテリヤキダブルつくねバーガーから、ピクルスがはみ出て落ちそうだった。
「大丈夫よ、ね、迫田くん」
 あかねは、まだ口をつけてないジャングルベジタブルサンドを持ったまま、美耶の向こうの俊を覗きこんだ。
「まだ、何も決まったわけじゃないんだから、こういうことは決まってから悩みましょうよ」
「そうよ、あかねちゃんの言う通り。まだ何も決まってないんだから。でも決まるとしたら、たぶんサコちゃんだけど」
「美耶ちゃん!」
 舌を出した美耶を、あかねは目で叱った。
「やめよーぜ、この話」
「切り出したのは日下部くんでしょ?」
 あかねの鋭い視線に、厚志は、肩をすくめてスーパーフランクチリドッグを口に押し込んだ。
 ピクルスが、トレイの上にぽとりと落ちた。

「言い過ぎよ、美耶ちゃん」
 太陽はもうどこにも見えないが、街はまだ明るい。特急が通過していったホームで、風が収まるのを待って美耶は返事をした。
「先に帰るなんて、当て付けがましいったらありゃしない」
「もう、美耶ちゃん」
「ああでも言わないと、だめなのよあいつは。追い詰められないと力が出ないタイプだから」
「それは、そうかもしれないけど・・・。でも、やっぱりちょっと言い過ぎよ」
「・・・ん、そうかな」
「大丈夫、そのために立花を護衛に付けたから、大丈夫さ」
「あれ、日下部くんまだいたの?」
「そ、そりゃねーだろ?、せっかく帰り道同じなんだし」
「ま、いいけど。で、護衛ってどういう意味よ」
「いや、万が一ヘンな気を起こしても・・・」
「ヘンな気?」
 あかねが血相を変えて口を大きく開けた。
「ま、まさか!?」
「大丈夫よ、あかねちゃん」
 袖口を引っ張るあかねを、美耶は背中を軽く叩いてなだめた。
「そんなにか細い神経持ってないから、俊ちゃんは」
 余計なことを言った厚志に蹴りを入れて、二人は急行に乗った。
「また来週ね」
「お大事に」
 うずくまる厚志をホームに残して、急行は走り去った。
「うっ、くく・・・、ご、護衛はこっちに付けるべきだった・・・」
 来週から、跳躍中のバランスが心配な厚志だった。

「ちょっと行ってくる」
 サンダルに足を取られそうになって、その勢いで美耶は玄関を出た。
「・・・やっぱり、言い過ぎたかな・・・」
 二階の部屋の明かりを見ながら、美耶は路地を抜けた。
「あら、美耶ちゃん。ごはん食べたん?。ひじきの炊いたんあるから持っていき」
 おばさんの柔らかい京都弁を聞くと、美耶はなぜかほっとする。
 ノックにも返事がなかったので、美耶は部屋のドアを開けた。
「入るわよ、俊ちゃん」
 美耶は、静かにドアを閉めた。
「あれ?、美耶ちゃんどうしたん?、ケンカでもしたん?」
「ううん、俊ちゃん、寝てたから、また来ます」
「なんや、そんなん叩き起こしたらええのに。ごめんね」
 おばさんの言うように叩き起こしてもよかったが、下着姿の俊を叩き起こしても、後が続かない。
 几帳面なはずの俊が、着替える途中で眠ってしまうとは、よほど疲れていたのだろう。
 まだ暖かいタッパーウェアを大事そうに抱えて、美耶は家に戻った。

 欠伸の涙でよく見えなかったが、電柱の側で立っているのは美耶だった。
「・・・おはよう」
「誘いにくりゃいいのに」
 とは言ったものの、俊もどことなく照れ臭かった。
「久しぶりね、一緒に行くの」
「そうか?」
 土曜日を引きずっているようには見えなかった。眠そうに目を擦りながら、真ん中で分れている髪の天辺が寝グセで少しだけ浮いている。美耶は少し安心した。
「ねえ、まだ朝食べてないでしょ?」
「ん、食べてない」
「これ、教室で食べて」
 渡された包みは、まだ熱いくらいだった。
「入れ物は、おばさんに渡して。ひじきのお返し」
「あ、これうちのやん」
 重みからすると、おにぎりだろう。俊は、軽く会釈して鞄にしまった。
「それで、お願いがあるの、なんて言いださないだろうな?」
「言わないわよ」
 商店街のアーケードを横切って、駅前の通りに出た。
「やっぱり、朝練ないと楽ね」
 来ない返事に俊を見遣ると、やっぱり土曜日を引きずっていた。
「ごめん、やっぱり、言い過ぎてた。・・・ごめんなさい」
「え、何が?」
「だから、土曜日のこと・・・」
「ああ、あれ・・・。気にしてないよ。美耶の言うことも尤もだし」
「でも・・・」
「あのさ」
 急に身を乗り出してきた俊に、美耶は二三歩たじろいだ。
「な、何?」
「このままじゃ、やっぱりいけないと思うんだ。だから、・・・自主トレでもしようか、って思って」
「うん、いいんじゃない?」
「でさ、・・・できたら、付き合って欲しいんだ」
「うん、いいよ。じゃ、明日からね」
 途端に明るくなった俊の顔に、美耶もやっと肩の荷が下りた。
「よかったあ、美耶が一緒だと助かるよ。ありがとう」
 俊の視線を感じながら、美耶は足を早めた。
「ね、駅まで競争する?」
「もういいよ、どうせ勝てないんだから」
 本気で走っていじめてやろうかと、美耶は少しだけ思った。

「あら、おいしそうな朝ごはんね。幼なじみ?」
 隣の席の質問に下手に答えると、後々まずいことになりかねない。
「おにぎりってね、簡単なようですごく難しいんだから」
 電話の呼び出しが鳴ったようで、隣の席は教室を出た。
「・・・今のうちに」
 全く、とんでもない生徒の隣になったものだ。探偵部なんて、全国捜したって他にありゃしない。おまけに、部の備品とはいえ、携帯電話を持ち歩くなんて。
「おう、生きていたか、迫田」
 手元が暗くなったと思ったら、立花がそそり立っていた。
「生きてるよ」
「うまそうだな。島崎につくってもらったのか?」
「な、な、なぜそれを?」
「そこで戸川に聞いた」
「・・・あンの探偵ヤロー」
「女だからヤローじゃないぞ」
「そんなこたあどーでもいーんだよ!」
 立花は、教室の後ろで柔軟体操を始めた。
「部室行こ」
 教室で食べたのが間違いだった。始業までまだ間があるので、俊は包みを持ってそそくさと教室を出た。
「・・・なにをこんなにビビってるんだろ」
 あのクラスに卒業までいるのかと思うとぞっとする。
「あれ?」
 階段の踊り場で、菅原部長と擦れ違った。
「おはようございます」
 考え事でもしていたのか、部長は会釈するのがやっとだった。
 活発な性格と太陽のような微笑みは、陸上部のみならず人気がある。やっと伸びた髪も、結局先週、元のショートスタイルに戻して部員の非難と喝采を浴びた。
 トラックを駆け抜ける姿は、“ライトニングヴィーナス”と形容され、殊にスプリンターらしからぬグラマーな体型は、陸上連盟をして『コンマ二秒のハンディ』と言わしめるほどだ。
 スプリンターを志す美耶も、そんな部長に憧れる一人だ。同じように髪を短くして、さすがに体型は程遠いが、マンツーマンで練習ができて嬉しいと、よく言っていた。
 そのときの本当に嬉しそうな美耶の笑顔を思い出しながら、まだ冷めないうちにと俊は部室へ急いだ。
 体育系のクラブハウスは、グラウンドの東隅にあり、校舎とは渡り廊下でつながっている。ちょっとしたアパート並みで、鉄筋コンクリート二階建て全三十室、広さは六畳ほどで窓もあり、電気だけひかれている。もちろん、電気代は部費持ちだ。
 朝練の片付けも終わり、クラブハウスはひっそりしていた。急な鉄製の階段を駆け上がって、陸上部は二階の一番遠いところにある。
「あれ?」
 部室の引戸が半分ほど開いていた。
「不用心だなあ」
 鍵はついてなく、盗めるような価値のある物は何もないが、それでもこういうことはきっちりしておかないと。
「おはようございまーす」
 一応、礼儀は正しく、開いている隙間をくぐり抜けるようにして中に入ると、俊の動きが凍り付いた。
「あ、美耶?」
 振り返ったのは確かに美耶だったが、なぜか慌てたように部室を出ていった。
「・・・だよな、今の」
 階段を駆け下りる音が響いている。外に出ると、もう美耶の姿は校舎の中に消えていた。
「どうしたんだろ・・・」
 窓から差し込む光で、顔は見えなかった。テーブルに腰掛けて、冷めかけたおにぎりを口にした。
「まさかな・・・」
 どう考えてもそうは思えなかったが、美耶のシルエットに光ったのは、どう見ても涙だった。

「休み?、・・・帰ったんですか?」
 俊は、ウォーミングアップに来なかった美耶を不審に思って、フリージョグに出る前に部長に訊いた。
「どこか具合でも?」
 部長の返答は、まるで要領を得なかった。
「そうですか・・・」
『でやあああっ!』
 練習熱心なのは結構だが、少し騒がしいのが立花の欠点だ。
「じゃ、外回り行ってきます」
「・・・待って、迫田君」
 部長は、俊のむき出しの肩を掴んだ。
「何ですか?」
「・・・しばらく、彼女についててあげて。お願い」
 それだけ言うと、部長はクラブハウスの方へ向かった。
『ぬおおおおっ!』
 立花の気合いがグラウンドにこだました。
『危ねえよ、バカあっ!』
 砲丸は、ピッチャーを強襲した。
 グラウンドの喧騒をよそに、俊はスパイクを鳴らしながら外に出た。
 やはり、何かあった。それも、美耶と部長の間に。あのときの涙は、見間違いではなかったのだ。では、一体何があったのか。
 同じ長距離の先輩が、心配そうな顔をして俊の行く手を阻んだ。時計を見ると、二時間もずっと走っていたのだった。不思議と疲れはなかったが、その後のバウンディングの補強トレーニングはキャンセルさせられた。

「ちょっと行ってくる」
 踵の潰れたカンフーシューズを引きずって、俊は玄関を出た。
 二階の部屋の明かりは消えていたが、俊は路地を抜けた。
「美耶ちゃん、いますか?」
「あ、俊ちゃん、ちょうどよかったわ。美耶ね、帰ったきり部屋に閉じこもって出てこないの。晩ごはんもいらないって言うのよ」
 ノックにも返事がない。階段の下で心配そうにしているおばさんに頷くと、俊はドアを開けた。
「美耶、入るぞ」
 真っ暗な部屋の中で、ベッドに腰掛けている美耶のシルエットが、月明かりに浮かんでいた。
「何してるんだ、電気もつけないで」
 壁をまさぐった手にスイッチが触れた。美耶は、何一つ身じろぎせず、ベッドに腰掛けたままだ。
「美耶?」
 呆然と見つめる美耶の視線の先には、割れた鏡台があった。
「どうしたんだ、美耶。何の説明もなしか」
「・・・出てって」
 顔色一つ変えず、美耶は冷たく言い放った。
「具合が悪そうには見えないけどな」
「聞こえなかったの?、一人にして」
 それらの言葉を意にも介せず、俊は勉強机の椅子に、背凭れを抱えるようにして座った。
「・・・今日さ、フリージョグで外走ってたら、先輩が心配そうな顔で前に立ちはだかってさ。聞いたら、俺二時間も走ってたんだって。時計見てびっくりしたよ」
「何それ、バカみたい」
「お前のことずっと考えてたんだよ!」
 壁に打ち付けた拳に、美耶は驚いて俊を見上げた。
「・・・あんな涙見せられて、ウォーミングアップには来ないし、部長は帰ったって言うし、理由訊いても返事はしどろもどろで、挙げ句に『彼女のことお願い』って、気にならないほうがどうかしてるよ!」
 俊は、椅子を離れて美耶の隣に座った。
「・・・俺、明日も二時間走ったら、死んじゃうよ」
 つぶらな美耶の目から、まるでスイッチが入ったように涙が溢れだした。
「美耶・・・」
「・・・悔しいよ、俊ちゃん。・・・悔しいよおっ!」
 子供のときのように泣きじゃくる美耶を、俊はしっかりと抱き留めた。

「・・・こんな夜分に、すいません」
『かかってくるんじゃないかって、思ってたわ』
 電話の向こうの部長の声は、腹が立つほど冷静だった。
「部長、単刀直入に言います。美耶の、・・・島崎のコンバートを撤回してください」
 溜息の後、しばらく沈黙が続いた。
「何の権利があるっていうんですか?」
『あるわ』
「菅原さん!」
『普門学園高校陸上部に席を置いている以上、これは仕方のないことよ』
「美耶に、何の不都合があるんですか?、彼女は立派なスプリンターです」
『・・・そうよ、彼女は素晴らしいわ』
「だったら・・・」
『でもね、こっちも素人じゃないのよ。顧問は、彼女をスプリンターとしてよりも、他のフィールド競技に出させたほうが、より活躍できると判断したの。撤回はしないわ』
「何のため、なんですか?」
『・・・陸上部が、勝つためよ』
「じゃそのためには、美耶一人くらい犠牲にしても構わないって言うんですね?」
『そうよ!、・・・・・・そうよ、一人くらい、犠牲にしても・・・』
 部長は必死でこらえていたが、言葉尻が少し涙声だったのが俊にはわかった。
『・・・彼女、元気?』
「ええ、泣くだけ泣いて、寝ました」
『いいわね、幼なじみで、志を同じくしているなんて』
「どうしても、だめなんですか?」
『・・・成果を、はっきりとした成果を見せてくれれば、先生もあるいは折れてくれるかもしれないわ』
「成果、ですか?」
『そう。コンバートが無駄に思えるような成果をね』
「わかりました、やってみます」
『あ、それと、足首に注意して』
「足首、ですか?」
『そう、足首。期待してるわ』
 コンバート撤回の可能性が出てきたのもそうだが、菅原部長が真剣に部のことを考えているのが俊は嬉しかった。
 タイムリミットは、今週の土曜日となった。

 誰にも言うつもりはないと、俊は思った。同時に、秘密にするつもりもない。ただ、部活の時間はやはり部活に使うべきであるから、二人の特訓は早朝に行なわれた。
「・・・だめだ」
 地面に置いたノートパソコンを覗き込みながら、俊が一人呟いた。
「どうだった?」
 息を弾ませながら、ランニングウェア姿の美耶が戻ってきた。
「やっぱり、菅原さんのが目標タイムじゃ、差が大き過ぎるよ。コンマ一秒縮めるのが精一杯だ」
「だめよ、このタイムは譲れないわ。誰もが納得できるタイムでないと・・・」
 光電管とパソコンを使ったこの計測装置は、菅原部長に貸してもらったものだ。
「足首って、言ってたのね、菅原さん」
「ああ、足首に注意しろって」
「OK、もう一度、走ってみるわ」
 スターティングブロックを軽く蹴って、美耶が位置についた。俊が、スターターを撃ち鳴らす。
 撃ち出された弾丸のように、美耶の身体が前に流れた。
「・・・いけるぞ、美耶!」
 力強く、それでいて軽やかな腕や足の動きは、走るというより、まるで跳ぶように一直線に突き抜けていく。
「・・・足首・・・、接地ね!」
 しっかりと地面を捉えた足が、その刹那弾かれるように跳び上がる。
「・・・いける!」
 大きく胸を張り出して、美耶はゴールを横切った。
 しかしその瞬間、油断したのか、美耶は足を取られ、地面へ叩き付けられながら転がっていった。
「美耶!」
 美耶の許に駆け寄ったのは、俊だけではなかった。
「美耶ちゃん!」
「島崎!」
「ぐおおおっ!」
 校舎から、みんなが駆け出してきた。
「立花、島崎を医務室へ」
「おうっ!」
「美耶ちゃん、大丈夫?」
 幹男に抱きかかえられ、あかねが付き添いながら、美耶は校舎へと運ばれていった。
「みんな・・・」
「・・・水くせーな、迫田よおっ」
「すまない。秘密にするつもりはなかったんだ」
「1Cじゃ、秘密を守り通すのはかなり難しいようだな」
 俊は、心当りを思い出して舌打ちをした。
「かと言って、黙ってる腹もねーだろーが」
 二人は、校舎の方を見遣った。医務室に向かった三人は、校舎の中へと消えた。

「捻挫、ですか?」
「そ。軽いものだけど、もうちょっとで危なかったわよ」
 当直の保健医が、応急手当てを施した。
「危ないって?」
 保健医は、手で棒を折るような仕草をした。
「骨折?」
 俊と、着替えを済ませてベッドに座っている美耶は、互いの顔を見合わせた。
「しばらく安静にね」
 保健医は、椅子をくるっと机に向けた。
「・・・じゃ、土曜日は・・・」
「無理ね」
 白いカーテンの揺れる戸口に、菅原部長が立っていた。
「菅原さん」
「みんなから聴いたわ。大丈夫?」
 そのみんなは、カーテンの隙間から心配そうに中を覗きこんでいる。俊が追い払うような仕草をしたが、まるで無視していた。
「お願いです、コンバートの件、足が直るまで待ってください」
「その必要はないわ。あなたたちの成果は、ちゃんと見せてもらいました」
 部長は、抱えていたノートパソコンを二人の目の前に翳した。
「それじゃ・・・」
「足首の強化を中心にリハビリすれば、秋の大会には間に合うわ。・・・頼んだわよ」
『やったーっ!』
 外にいた厚志達もなだれ込んで、喜び合う俊と美耶をあとに、菅原部長は医務室を出た。
「・・・最後くらい、好きにさせてもらうわよ・・・」
 遠くなる喧騒を聴きながら、体育教官室に向かう小百合の足取りは、実に軽やかだった。
「やったな、おい」
「よかったわね」
「うがあああっ!」
「ありがとう、みんな」
「だから水くせーっつーの」
「さ、授業が始まるわ。教室に戻りましょう」
「だめだよ、美耶。今日はこのまま家に帰れ」
「ううん、痛いのは足だけだから平気よ。ね、いいでしょ、先生?」
「いいんじゃない?」
「ほら」
「よし、じゃおんぶしてってやるよ」
「え、でも・・・」
「ばーか、遠慮するような柄かよ」
「ひゅーひゅー、嫉けるぜこのぉ、ド根性ガエル!」
「ぐごおおおっ!」
 保健医は、少しだけ呆れながらカルテの整理を続けた。
「鞄、あたしが持つわ」
「よし、行こうぜみんな」
 始業のベルが鳴り響く廊下を、陸上部員一年生が歩いていく。
「・・・ねえ、重くない?」
「平気さ。・・・しばらく、足の代わりやってやるよ」
「ありがとう」
「お前ほど、速く走れないけどさ」
「・・・こんなときくらい、ゆっくりでいいよ」
「・・・そうだな」
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