1994

PARTNER

 着慣れない礼服の襟元が気になって、ボビー・ブラッグスは不機嫌そうな顔つきでくたびれたステーションワゴンを降りた。それでなくとも、つり上がった眉と彫りの深い目許は、逮捕した容疑者を告白に追い込むまでに十分な迫力を持っているというのに。
 クロームメッキの施されたドアミラーをぐいっと動かして、後ろへ無理矢理といっていいくらい撫で付けたダークブロンドの髪を掌で整えながら、苛立たし気にボンネットフードを叩いた。
「よう、BB。いつまで不機嫌そうな顔してんだ」
 ジャック・ブラニガンが、でかい身体を揺らしながらやってきた。よくもそのサイズの礼服があったものだ。
「お前が抜けてから、麻薬課も仕事がはかどるようになったぜ」
 顔の左半分をにやつかせながら、ジャックはボビーの胸板をノックするように叩いた。
「こっちもさジャック。もう狭い廊下でお前のでかい腹と擦れ違わないで済むんだからな」
 ボビーがはちきれそうな白いシャツの腹の辺りに人差し指を突き立てると、ジャックは大儀そうに肩をすくめてみせた。
「シャーリーは?、一緒じゃないのか」
「仕事がどうしても、って。式には出られないが、パーティには出るつもりらしい」
 話している間も、ボビーはずっと襟の辺りを触っている。
「ところでジャック、今日は“オペレーションハロウィン”のミーティングじゃなかったのか?」
「延びたよ。今月に入って、組織の連中が急に大人しくなりやがって、オトリにもさっぱりだ。このままじゃオペレーションそのものの中止もありうるってよ」
 今月末、大掛かりな麻薬取引があるとの情報を受けて、麻薬課はDEA(麻薬取締局)と合同で組織の壊滅作戦を進めていた。
「BB、仕事の話はやめようぜ、今日くらいはよ」
 それにはボビーも同意した。パーキングから続く小道は、教会の中庭に伸びていた。
 中庭では、既に結婚式の出席者が集まり始めていた。久しぶりに見る顔もあったので、ボビーはその一団に混じって話をしていた。
 生まれ育った町の教会で式を挙げたいというのは、リナ・エトフォードのたっての希望だった。彼女の伴侶となるニック・ヘイワースも、それを大いに歓迎した。
「あの、ブラッグスさん・・・」
 遠慮がちに呼びかける声に振り向くと、すっかり身形を整えたニックが、神経質そうな目を丸眼鏡の奥でしばたたかせながら立っていた。
「・・・リナの所へ、・・・行ってやってもらえませんか」
 その言葉には、ややためらいがあった。
「・・・いや、しかし・・・」
「お願いします。・・・行って、話してやってください。彼女もきっと望んでいると思います」
 ひょろ高い身体を半身に構えて、教会の入り口をニックは指し示した。
「・・・OK、わかった」
 半分だけ開けられた扉口を入って、すぐ左手の控え室のドアをノックすると、上ずった声で返事がきた。
 リナは、ボビーの姿を認めると、少しはにかんだようにドレスの裾を気にしながら立ち上がった。
「どう?」
「・・・ああ、きれいだよ、リナ」
 祖母が日本人だというのを、ボビーは以前に聞いたことがあった。そんなに高くない鼻や、引き締まるような目許がそれを物語っている。薄くひいたルージュの口許を少しだけ綻せて、リナは歩み寄っていった。
「ほら、襟が・・・」
 そう言ってボビーの首の辺りに手を回してから、邪魔なことに気づいた手袋を右手だけ外した。
「シャーリーは?、パーティには来てくれるんでしょ」
「ああ。・・・ありがとう・・・」
 ボビーの曇った表情を見て、リナは一度うつ向いてから思いっきり微笑んだ。
「・・・殺人課の居心地は?」
「ああ、まあまあだ。麻薬課より忙しいが、弾丸の使用量は半分に減ったよ」
「へえ、そうなの」
「現場に着いたときには、大概コトは終わってるからね」
「じゃ欲求不満なんじゃないの?」
 リナを椅子に座らせてから、「そうでもないさ」とボビーは答えた。
「・・・リッチモンド課長から誘いがかかってるんでしょう?、例のオペレーション」
「・・・関係ないさ。もう、俺は麻薬課の人間じゃない」
 一つだけある窓のそばに立って、少し間を置いてボビーは答えた。
「でも、あなたが内偵を始めた組織でしょう?」
「話ってのはそのことなのか?」
 振り向いたボビーの険しい顔を見て、リナははっとした後に、悲しそうにゆっくりと視線を落とした。透き通るような白い手が、外した手袋を握り締めていた。
「・・・すまない、リナ」
 ボビーは跪くようにしてリナのそばに来ると、うつ向いたリナの頬に手をあてた。
「・・・今日くらいは、仕事の話はやめにしよう。先刻、ジャックにも言われたんだ」
 流れ出そうな涙をボビーが親指で押さえるようにして拭うと、リナは大きく頷いた。
「OK、じゃまた後で」
 軽く頬にキスすると、ボビーは立ち上がった。
「待って」
 ボビーは、背中を向けたまま振り向かずにいた。
「・・・ボビー、・・・あたし・・・」
 そこまで聞くと、ボビーは急ぐようにドアノブに手をかけた。
「・・・俺達は、もうパートナーじゃない。リナ・・・、幸せになるんだ」
 ボビーは、静かに控え室のドアを閉めた。その音が、何度も頭の中で響いているような気がして、二三度かぶりを振ってから青い空を仰いだ。
 所々外壁に蔦が絡まるほどの古びた外観とは逆に、教会の中は明るくきれいだった。セレモニーの心地好い緊張感が辺りを包み、丸い天窓から差し込んだ光が、正面の十字架を横切るようにして牧師の足元を照らしていた。
 パイプオルガンの荘厳な調べに乗せて、ニックとリナが入場してきた。ニックは驚くほど堂々とした足取りで、真っすぐ前を睨むように見つめていた。リナは、どこか恥ずかし気にうつ向きながら、同僚の声に時々顔をあげて微笑んでいた。
 薄いヴェール越しに、リナの眼差しが何かを探るように彷徨った。ボビーは、ジャックに肘で突かれて、初めてヴァージンロードのほうを向いた。
 リナの視線が、凍り付いたように動かなくなった。ボビーがゆっくりと頷くと、リナははにかんだように微笑んで、また前を向いた。
 甲高いイギリス訛りの牧師の声が、堂内に響き渡る。
「それでは、指輪の交換を」
 どこまでも青く、澄み切った空。
 頌栄の賛美歌が流れる中、ボビーは教会を後にした。

 エドワード・リッチモンド麻薬課長の傍らに立つ女性を、ボビーははっきりと憶えていた。どことなく東洋的な顔だち、ダークブラウンの短い髪、取り分けその切れ上がった鋭い目許が、一番印象に残っていた。苦々しい印象だった。
「リナ・エトフォードです」
 声も憶えていた。若く見える外観、事実彼女はまだ若いが、それからは想像できないほど落ち着いた、それでいて軽やかな抑揚。
「BB、しばらく彼女と組んでてくれ」
 相棒だったケント・バークレイは、先週OO(ダブルオー)バックの散弾を右肩に食らって、長期加療の必要ありということで休職になった。不幸とは続くときには続くものだとボビーは思った。
「よろしく、ボビー・・・」
「ボビー・ブラッグス、さん、でしたね。研修ではお世話になりました。リナと呼んでください」
 緊張など微塵もなく、むしろ楽しそうな彼女の笑みを、ボビーはどう受け取ったらいいのかわからなかった。
「・・・よろしく、リナ」
 射撃の臨時教官としてアカデミーに赴いたとき、現役捜査官のボビーより射撃の腕が上だった生徒がいた。まさかその生徒が自分のパートナーになろうとは、射撃の腕だけでここまできたようなボビーにとっては逃げ出したいくらいだった。
「いつも不機嫌そうですね。前もそうだったわ」
 ミーティングルームで催されたささやかな歓迎会で、チキンを頬張るボビーにリナが話しかけた。
「憶えてないでしょうね?」
「・・・忘れていれば、もう少し機嫌のいい顔になってる」
 食べ終わった骨を、プラスチックのトレイに無雑作に放り投げて、ボビーはもう一つチキンを摘んだ。
「これだけは言っておく。麻薬捜査で必要なのは粘りと辛抱だ。それ以外はおまけみたいなもんだ、なくったって構いやしない」
 そこまで言って、ボビーはリナの横顔を盗み見た。彼女は、うっすらと笑みを浮かべていた。
「何がおかしいんだ?」
「・・・だって、まるで自分に言い聞かせてるみたいなんですもの」
 それから、ボビーの口はチキンを食べる以外のことをしなくなった。
 憂欝な日々を、ボビーは正直覚悟していた。ただでさえ新人と組むのは厄介な上に、その新人が有能であればあるほど、ボビーの立つ瀬がなくなるというものだ。
 しかし、お互いパートナーとして毎日のように行動を共にするうちに、リナがただの有能なアカデミー卒業生ではないことに、ボビーは気づいた。まるで十年来のパートナーのように、リナは人間関係においてもボビーに対して実にうまく立ち回って、彼の立場を犯すことなくパートナーとしてのサポートを行なった。ボビーの誤解が解けるのに、そう長い時間はかからなかった。
「疲れただろう」
 話し掛けるボビーに、リナは椅子にもたれたまま目を閉じて微笑んだ。ミーティングルームは、こうやって忙しくなると仮眠室の役割も兼ねる。
「俺達が忙しいってのは、社会にとってはよくないんだろうな」
 よほど疲れているのか、リナは頷いて答えるだけだった。
「・・・落ち葉の掃除みたいなもんだって、よく先輩から聞かされたよ。・・・片付けても片付けても、次から次へと落ちてきやがる。葉っぱがなくなるまで掃除を続けるか、木を切り倒すか・・・」
「・・・でも、切り倒すには木が多すぎる、でしょ。憶えてるわ」
 リナはゆっくりと身体を起こすと、紙コップの冷め切ったコーヒーを飲み干した。
「・・・だから、あたしはここに来たの。・・・あなたのパートナーに・・・」
 椅子に深く身を埋めて、リナは目を閉じた。部屋の照明を、リナのいる所だけ落として、ボビーは課へ戻った。
 ボビーとリナのコンビネーションは、あらゆるシチュエーションで如何なく発揮された。“クラックハウス”と呼ばれる麻薬常習者のアジトへの手入れや、オトリ捜査官と共同のドラッグディーラーの摘発など、持ち前の射撃の腕で、よほど危険な場合を除いては容疑者を射殺することなく確保し、情報収集に大きく貢献した。
 やがて、“ボビー&リナ”の名パートナーぶりは、署内はおろか管轄外にまで広がり、怪我が全快して復職したケントも、「ふられた気分だよ」とジャックとパートナーを組んだほどだ。
 捜査において、時にはお互い命を預けあうこともあるため、パートナー同志は、信頼を高める意味で家族ぐるみの付き合いをすることが多い。男女コンビとはいえ、その点は彼等ももちろん例外ではなかった。ボビーにとって、三人で過ごす二回目のクリスマスがやってきた。
「メリークリスマス」
 型通りの挨拶を済ませた後、リナは脱いだコートをボビーに預けてさっさと行ってしまった。ほどなく、キッチンが騒がしくなった。
「しょうがないな・・・」
 ボビーは、半ば諦めた調子で、リヴィングで一人寂しくアペリティフ代わりのビールを飲んでいる。彼の知らないうちに、リナは妻のシャーリーとディナーの準備を手伝う約束でもしたのだろう。
 食器が触れ合う甲高い音や、楽しそうな二人の声がひっきりなしに聞こえてくる。ボビーは、酔いが回らないうちに準備してほしいものだと思いながら、三杯目を注ごうとした。
「ボビー」
「出来たわよ」
 グラスを片手にボビーが食堂にやってくると、シャーリー曰く‘北欧風’クリスマスディナーがテーブル一杯に並べられていた。
「リナが手伝ってくれたから、今年は今までで一番豪華だわ」
 エメラルドグリーンの瞳を嬉しそうにきらきらさせながら、シャーリーは束ねていたブロンドの髪を解いた。
「あー、おなかすいた。シャーリーったらつまみ食いしてばっかりなのよ」
「リナ、言わないでっていったでしょ」
 まるで姉妹のような二人の会話に、ボビーは呆れた薄笑いを浮かべながら席についた。
「さ、これ以上待たせないでくれよ」
 明日からボビーもリナも休暇に入るので、笑いの絶えないいつもより騒がしいディナーになった。気を遣っているのか、リナは仕事絡みの話は一切せず、世間話に終止した。
「泊まっていって」と言ったのはシャーリーだったが、リナはそれを丁重に断った。二人は、お互いの姿が見えなくなるまで、手を振り続けていた。ボビーは、ステーションワゴンの運転席で、この二人が本当に姉妹かあるいは幼なじみの親友のように思えてきた。
「どうするんだ?、休暇は」
 返事をしないリナを見たボビーは、彼女が泣いているように見えた。
「リナ?」
 顔を上げたリナは、いつものリナだった。
「両親のところに帰るわ。もちろんよ」
 ボビーは、きっとホームシックにでもなったのだろうと、道を急いだ。
「シャーリーと一緒にいる君を見てると、まるで妹みたいに思えてくるよ。彼女もそう言ってた。ずっと小さいころから、リナみたいな妹が欲しかったってさ」
「・・・じゃボビーはお兄さん?。・・・そうね、それもいいかもね」
 アパートの前で停めたワゴンを降りて、リナはドアを閉めた。
「じゃ、いい休暇を」
「メリークリスマス、ボビー。送ってくれてありがとう」
 リナは踵をかえすと、アパートのエントランスへ続く階段を上がりかけたが、また車の所へ引き返した。
「ねえボビー、クリスマスだから言うわけじゃないのよ・・・」
 車のドアを開けようとして、延ばした手をボビーは引っ込めた。
「・・・あなたと、こうやって一緒に仕事が出来ることはとても幸せだけど、・・・パートナーを組んだのは、少し後悔してる・・・。だって・・・」
 ボビーは、リナの言葉を口唇で塞いだ。驚いたように目を見開いたリナは、気づかれないように瞼を閉じた。
「・・・どうして、キスを?・・・」
 背中を、肩を支えていた腕をゆっくりと解いて、ボビーは車のドアを開けた。
「・・・クリスマスだからさ」
 ドアミラーの中で小さくなっていくリナを見ながら、ボビーは不思議とすっきりした気持ちでいた。気づかれないほど静かに、雪は降っていた。

 まるでボビーの参加を待っていたように、“オペレーションハロウィン”の遂行が決定した。市警本部とDEAの協力の下、密輸組織を一斉検挙しようという作戦だ。
 ミーティングルームでは、取引現場へのメンバーの振り分けが話し合われていた。捜査を撹乱するためかどうかは判らないが、今回三ヵ所で同時に取引が行なわれるという情報が入っていた。
 まず、オトリ捜査官との取引を成立させたところへ、先発隊として数名の捜査官が突入し、離れて包囲していた本隊と合流して一斉検挙する。
 先発隊は、本隊が到着するまでかなりの危険に晒されるため、慎重に人選がなされた。しかし、市警本部が行なったシミュレーションによる必要最小限の人数と、その能力に見合う捜査官の絶対数が不足していた。
「大丈夫さ、なんとかなる」
 足りないのはボビーの班だった。
「BB、これはお前一人の問題じゃない。みんなが危険に晒されるんだ」
 リッチモンド課長が、機嫌を伺うような口調でボビーをたしなめた。
「DEAもこれ以上人は出せないと言ってきてる。他の課にあたってもいいが、連携という点で問題も出てくる」
「市警の計算がなんだって言うんですか。俺が二人分フォローしますよ」
「そういう問題じゃないんだ、ボビー」
「課長はどっちを信頼してるんですか。市警のコンピューターと、この俺と!」
 この問題は、後日に持ち越された。だが、早急に解決すべき問題で、猶予はそれほど残されていなかった。
「リナが?」
 ボビーがそのことを聞いたのは、ジャックからだった。
「昨日、課長んとこ来てたぜ」
「課長が呼んだのか?」
 ボビーの殺気だった顔に、思わずジャックは言い淀んだ。
「い、いや、違うだろ?。課長なら捕まらないぞ、各部署へ調整で飛び回ってる」
 確かに、欠員を埋められるのはリナしかいない。課長の要請でなく、リナが自分から言いだしたのなら歓迎したいのは山々だ。
「ボビー?」
 ガラス越しのリナは、驚きと戸惑いの入り交じった表情で、ボビーを出迎えた。
「どういうことだ、リナ」
「まあ、挨拶も抜きでいきなり本題?」
 郊外に構えたニックとリナの新居に、ボビーは初めて訪れたのだが、そんなことに触れるつもりは更々なかった。
「休暇中ならなぜじっとしていない?」
「だからしてるでしょ、こうやって」
 リナのあくまでも柔和な表情は、ボビーの厳しい口調にも崩れることなく保たれていた。
「・・・・・・降りろ。作戦から降りろ」
「・・・そう言うと思った」
 リナはリヴィングを離れ、湯の沸いているキッチンへ向かった。
「紅茶しかないの。ごめんなさい」
 力強い足音がキッチンにやってきたが、リナは振り向きもせずに紅茶の葉が入った缶を開けた。
「君はもう課の人間じゃない。課長の命令なら・・・」
「リッチモンド課長は関係ないわ。これはあたしが決めたこと。それにね、異動は来月なの。だからまだあたしは麻薬課の捜査官ってわけ」
 ポットに立った湯気が、リナの華奢な肩を顕にした。ボビーは、それがひどく慎ましく思えた。
「君も作戦内容は知っているはずだ。・・・ニックのためにも、降りてくれ。もし万が一のことがあったら」
「ねえ、ボビー」
 リナは、キッチンの椅子を勧めて自分も向かい合うように座った。
「こんな危険な仕事なのに、あたしは一度もそう思ったことがないの、万が一って。なぜだと思う?」
 うつ向いたまま微笑んで、リナは言葉を続けた。
「あなたがいたからよ。あなたがパートナーだったから、あたしは無敵になれたの。他の人じゃ、そうは思わなかったでしょうね」
 テーブルの上に組んだ腕を置いて、ボビーはポットの注ぎ口から出る細長い湯気を見ている。
「仕事を続けることは、彼も、・・・ニックも賛成してくれたわ。あたしもそのつもりだった。結婚しても、子供が出来ても、仕事は続けたかった」
「・・・じゃ、なぜ辞めるんだ?」
「あなたがいないからよ・・・」
 嘆きにも似た言い方に、ボビーは身じろいだ。
「あたしに一言もなしで、殺人課へ異動するなんて。気を遣ったつもりでしょうけど・・・」
 芳しい香りが、カップから溢れてくる。湯気の向こうのリナは、やるせないほど悲しい目をしていた。
「・・・せめて、パートナーとしてなら、愛してくれると思ってた・・・」
 ボビーは、静かに席を立った。
「・・・射撃練習、しておいたほうがいい。サブマシンガンも使うからな」
 玄関の扉が閉まって、カップが小さく音を立てた。リナは、湯気の温りが消えるまで、琥珀色の水面を見つめていた。
「五分だ。俺達は五分持ち堪えりゃいい。そうすりゃ2マイル先から本隊がくる。いいな」
 ショットガンやサブマシンガンを携えて、濃紺のボディアーマーに身を包んだ先発隊は、取引現場近くに停めたミニバンの中で待機していた。
 ボビー率いるC班は、DEA局員三人、市警の特殊部隊から三人、そして、ボビーとリナの計八人で構成されている。これに、ミニバンの運転手と通信員が加わる。
 予めセットされている暗視カメラが、現場の様子を辛うじて捉えていた。他の二ヵ所の取引現場でも、同様の動きが現われ始めていた。
「来ました!」
 助手席にいた通信員が、打ち合わせていたオトリ捜査官の合図を確認した。
「よし、出るぞ」
 ヘッドセットのマイクを口元まで下げて、ボビーはミニバンのスライドドアを開けた。降りたのは、ボビーとリナだけだった。
「ブラッグス、やはり二人だけでは・・・」
 DEA局員の言葉を無視するかのように、指で合図を送ると二人は前進していった。
「いらぬ心配だよ。君たちは知らないかもしれないが、彼等は無敵なのさ」市警の特殊部隊員が、なだめるように言った。
 辺りは、潮の臭いに包まれていた。かすかな波の音さえ聞こえてくる。もうすぐ、それも銃声にかき消されるのだろう。
「いいかリナ。相手は大勢だ、急所を確実にヒットしろ。一発で仕留めるんだ」
 身を屈めて歩を進めるリナは、親指を立てて合図した。
「こちらボビー。もう一度言うぞ。俺の合図で、ミニバンごと突入して・・・」
 ボビー達の頭上を、流星にも似た光の矢が通り過ぎて、ミニバンの方向へ走っていった。直後、鈍い振動と共にミニバンは爆発した。
「・・・ば、馬鹿な!」
 衝撃とまばゆい閃光に続いて、生温い爆風がボビー達を包んだ。
「ボ、ボビー!」マスクで顔は見えないが、瞼が引きつるほど目を見開いてるだろう。
「作戦が、漏れていた!?」
 遠い銃声に振り向くと、オトリ捜査官が仰向けに倒れていくのが見えた。
「オトリ捜査官がやられたわ!」
 爆発の光は、ボビー達を闇の中から浮かび上がらせた。たちまち辺りを火線が走る。
「こっちだ、リナ!」
 飛び交う銃弾の中、二人は倉庫の壁を背にして座り込んだ。
「・・・どうするの、ボビー」
 リナは、ヘッドセットとマスクを取って、大きく息を吸い込んだ。
「・・・逃げるか」
 ボビーは、爆発したミニバンを、眩しそうな目で見ていた。
「・・・心にもないこと言わないで」
 こうしている間にも、周りの資材や壁に次々と着弾していった。
「くそったれ、ハロウィンの供え物にしてやる」
 二人は、サブマシンガンのセレクターをオンにした。コッキングの音が、辺りに響いた。
「ねえ、一つ聞いていい?」
 ヘッドセットを投げ捨てると、ボビーは「なんだ?」と少し面倒臭そうに答えた。
「・・・去年のクリスマス、憶えてる?。なぜ、あたしにキスしたの?」
 ボビーは、鼻に引っ掛かったマスクを悪態を吐きながら投げ捨てて、髪を無雑作に掻き上げた。
「・・・その答え、明日まで、待ってくれないか?」
 リナは、ウインクをよこして微笑んだ。
「約束よ」
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