1994
もしも願いが叶うなら
『生きるべきか死ぬべきか、それが問題だ』と言ったのは誰だった?あと五分で、四時間目の授業も終わろうというとき、池山リョウタは窓際の一番後ろの席で、人生の岐路に立たされていた。
“焼そばパンにするか、ツナサンドにするか、これは問題だぞ”
削りたての長い鉛筆をくるくる回しながら、リョウタはじっと黒板の上の時計を見つめている。
彼にとっては、十分人生の岐路だ。
財布の中は400円ある。
まず、パックのオレンジジュースが80円、これは揺るがない。あと320円で、どちらかを買う。別に買わなくてもいいが、昼メシ抜きでは六時間目の体育がもちやしない。
焼そばパンは、一つ100円。ツナサンドは、食パン斜め半分のサイズが四切れで160円。全て内税である、念のため。
さて、大抵朝メシを抜いてくるので、いつもなら両方買って万々歳であるが、今日は食べてきている。ので、どちらか一つで足りるわけだが、ここが重要だ、理由はともかく、200円残しておかなければならない。
となると、昼メシに費やせるのは120円。なら焼そばパンを買えばいいじゃないか、という声が聞こえるがちょっと待った。今日は、六時間目に体育がある。焼そばパン一つではボリュームが圧倒的に欠けるのだ。しかも、今日の体育は持久走ときている。エネルギー補給の面で、これは不安である。
200円残すことは、絶対的な項目である。40円借りてツナサンドにするか、でも金を借りるなんてことは、それはプライドが許さない。今日の持久走は記録が取られるはず、陸上部としては高タイムを出しておきたいし、体育の先生は顧問でもある。下手なタイムは絶対に出すわけにはいかない。
絶対的な項目を外すか、プライドを捨てるか、陸上部員の面目を潰すか。おっと、いつのまにか選択肢が三つになってしまった。
やはり、リョウタにとって人生の岐路なのだ。
チャイムが鳴った。授業終了の挨拶をするや否や、結論の出ないままにリョウタは廊下を駆け抜けていった。
母親がいれば、こんなことで人生の岐路に立たなくて済むのだ。あんな父親だから、愛想を尽かす母の気持ちもわかる。まっとうに大学教授をやってりゃいいものを、研究だかなんだか知らないが、訳のわからないことばっかりやった挙げ句に、マッドサイエンティストのレッテルを貼られて、大学は追い出されるし世間体は悪いし、育ち盛りの中学生の身にもなって欲しいものだ。
今日も、リョウタは実験とやらに利用されている。実の一人息子をモルモットにするとは、これも明日の糧のためかと思うと涙も出やしない。
‘赤い彗星’、誰が言うともなくついたリョウタの仇名である。色白なのに日焼けするから、顔が赤黒くなってしまう。そのリョウタが、ランニングトラックを、そして購買部へと続く廊下を、階段を、駆け抜けていく姿を形容したものだ。余談だが、サッカー部には黒い三連星がいる。ほんとに余談だ。
旧校舎の長い木の廊下を抜けて、新校舎との間にあるプレハブの建物が購買部だ。昼休みを知らせるチャイムは、ものの数秒でここを戦場にしてしまう。新校舎の一年生のほうが距離的には近いが、やはりここは経験と立場が物を言う。とは言え、ルールはルール、モラルはモラル。上級生だからといって、列の割り込みや使いっ走りは一切許されない。欲すべきものは自らの力で勝ち取らなければならぬ、非情なローティーンなのだ。
リョウタは、考えた。やはりここは、絶対的な項目を外すわけにはいかない。面目は、頑張って保てばいいのだ。
「おばちゃん、これもらうよ」
気付いたのは、教室に帰ってきて席についてからだった。一息ついて机の上に置いたのは、選択した焼そばパンではなく、ツナサンドだったのだ。
「ば、ばかな・・・!?」
おまけに飲み物も買っていない。ポケットの残金は240円。昼休みが始まって、既に十分経過。そろそろ品物が買い尽くされるころである。
リョウタはもう一度購買部へと急いだ。水分の補給は絶対である。弁当持参組に、各教室へやかんに入ったお茶が用意されるが、田中さんに「わかってないなあー」と言われるのがオチである。パンに番茶が合うわけがない。
購買部の様子が見えるところまで来ると、リョウタは足を止めた。やはり買い尽くされているのを悟ったのもあるが、そこに一人の女子生徒の姿を認めたからだった。
厚手の制服からはみ出ている手足はあくまで細く、とりあえず校則どおりの肩に届かない伸ばしかけの髪、顔は見えなくても、リョウタにはそれが誰だか判った。
高木キョウコ、クラスは違う。だが、小学校は同じクラスだった。もっと言うなら、家も向かい同士で、もっともっと言うなら、リョウタは四年生の時、キョウコに「告白」されていた。
自我の目覚めが遅かったリョウタは、何のことやら全く関心がなかったが、次第にその意味が判るようになってくると、キョウコのことを意識し始めるようになった。最近のことだ。おまけに、成長するにつれキョウコは押しも押されぬかわいさで、男子生徒481人のターゲットになってしまっていた。
「告白」されたことの意味が判っていたら、中学生生活ももっと楽しいものになっていよう半面、それはそれでリョウタが男子生徒481人の、本当の意味でのターゲットになっていたかも知れない。なにはともあれ、その時にリョウタはずっと大きな人生の岐路を誤ったことになる。
うつ向いたままのキョウコがこちらにやってきた。長い睫毛を伏せたまま、リョウタがいることは知っているだろう。擦れ違う前に、リョウタはまた少し駆け出して、望み薄の購買部へと向かった。
「おばちゃん、飲み物まだある?」
「おや残念。キョウコちゃんで最後だよ」
そんなことは一目瞭然。キョウコが、旧校舎の入り口で振り向いた。手には、ジュースのパックが握りしめられていた。
「あ、そう・・・」
力なく呟くと、戦いの終わった戦場をあとにした。力なく歩く廊下に、昼休みの嬌声など聞こえるはずもない。ましてや、スピーカーから流れる気の利かない音楽など。
「・・・リョウタくん・・・」
天使の声?、それとも女神?。階段の踊り場で、リョウタの心臓は半拍ずれた。
「・・・キ、キョウコちゃん?」
キョウコは、先刻買った最後のジュースのパックを、リョウタの胸に押しつけるように渡して、軋む階段を駆け上っていった。
どうやらリョウタの選択は、正しいものになったようだった。
絶対的な項目も、プライドも、面目も、無事保たれたわけだ。持久走はおかげさまでクラス1位、学年総合でも2位と、体育教師兼クラブ顧問も満足気な表情だった。
それにキョウコと話が出来たなんて、話といっても会話なんてものじゃなかったけど、中学へきてからはずっと違うクラスだし、家は近いけど会うこともないし、たまに犬を散歩に連れているところをクラブの帰りに見かけるくらいで、お互いヘンに意識して、わだかまりがあるもんだから、挨拶もろくに出来ないし。
それでもリョウタには、キョウコに一番近いところにいるということからくる、優越感のようなものがあった。実際、家も近いし、小学校のときには・・・、だし。
キョウコの気持ちが、いつまでも同じとは限らないのだけれど。
クラブのない日は、帰るのが憂欝だ。出来るものなら独り暮らしをしたいのだけれど、家庭の事情が許さないし、まだ中学生だし。でも後の理由は理由にならないとリョウタは思っている。
とりあえず家は立派だ。門もあれば庭もある。ローンはないし、駐車場も人に貸している。ただ、いつまでもつかがわからない。せめて高校を出るときまでは、と思うのは親不孝だろうか。
「ただいま」
誰返事することなく、リョウタは靴を脱いで自分の部屋に直行した。
「おかえり」
白衣を着た父が、どういうわけか居間にいて、廊下を通り過ぎようとしたリョウタを呼び止めた。
「・・・ただいま」
煙草を灰皿にこすり付けると、組んでいた足を解いて立ち上がった。見た目はほんとにかっこいい大学教授らしいのに、よれよれの白衣の襟を正しながら廊下へと出てきた。
「リョウタ。学校で、何か変わったことはあらへんかったか?」
長い間京都で暮らしていたせいか、妙な訛がずっと取れずにいる。
「別に、ないよ」
父の、眼鏡の奥の瞳が曇った。
「そうか、なかったか。ほな、装置を回収しよう」
忘れていた。実験とやらで、身体の“首”と名の付く部分にリング状のものをはめていたのだった。乳首は別である。
全部で大小五つのリングを外して、父に渡した。
「こんなことはなかったか、リョウタ。例えば、何か選択に迫られるような・・・」
あ、そういえば。
「あったけど・・・」
急に父の目がいきいきと輝き始めた。
「どどど、どんなことや」
例の焼そばパンとツナサンドの一件を父に話した。途端、父は水を得た魚のように身体中をいきいきとさせた。
「それで、何かええことは起こらなかったか?」
詳しくは言わなかったが、嬉しそうな顔をすることで父にはわかっただろう。
「そうか、そうか・・・」
父はその言葉を何度も繰り返しながら、廊下を奥まで歩いていった。
「リョウタ、後で研究室まで来なさい」
振り向きざまの父の言葉に、リョウタは目が点になった。小さいころ、黙って父の研究室に入り込もうとして、半殺しの目に遭ったことがある。その父が、自ら研究室に来いと。とりあえずリョウタは二階の自分の部屋に入って、帰り道にコンビニで買ったジャンプを読むこともなく、そそくさと着替えた。遺書でも書こうと思ったが、面倒臭いのでやめた。
台所の勝手口から外に出ると、裏庭に物置がある。それが地下研究室への入り口になっている。物置と言っても、百人乗ってもつぶれないような立派なものじゃなく、農閑期のあばらやみたいなシロモノで、父は『カモフラージュだ』と言っているがばればれである。
入り口のもはや平行四辺形化した引戸を、上下左右にパズルでも解くように引き開けて入る。地獄への階段とはこういうのを言うんだろうと、確かリョウタは半殺しの目に遭ったときにも同じことを思った。薄暗く、急な勾配で、両手を壁に突っ張っていないとほんとに地獄まで落ちそうだった。
階段がなくなって、平らなこれまた薄暗い廊下を歩くと、訪問者を迎えるが如く開け放たれた扉から、いくつもの色鮮やかな光の点が見えてきた。それは、近づくにつれて眩しいくらいに輝きを放ち、やがてそれはリョウタの周りに広がった。
「・・・うわ・・・」
自分の家の地下に、こんなに広い地下室があろうとは。半殺しの時は、扉を開けることなく父に捕まったので、実際に研究室に入ったのはこれが初めてだった。
恐らく家の敷地ぎりぎり、リョウタの学校の教室四つ分は優にある。四方の壁は謎めいた装置がうず高く積まれ、しかし整然と整理されている。中央に、手術台みたいなものがあり、脇には円筒形の太い柱が三本、床から生えたように天井まで伸びている。その柱の中ほどはガラスになっていて、中に何か入れたりするのだろう。
「ようこそ、我が息子よ」
スターウォーズじゃあるまいし何言ってんだか。でもロボコップの一人や二人いてもおかしくない雰囲気。父の気持ちはわからなくもないが。
装置に向かっていた父は、部屋の隅のソファにリョウタを手振りで促した。青白く照らされた研究室の中を、リョウタは身をすぼませながら歩いていった。
「そうか、お前はここへ来るのは初めてだったな」
半殺しにしたくせに。
「う、うん・・・」
父は、ソファにどっかりと腰を据え、仰々しく足を組み替えた。
「・・・リョウタ、とうとう長年の父さんの研究が、・・・成功したぞ」
リョウタは、とりあえず驚いてみた。リアクションには、気を遣う息子である。
「ど、どんな研究?」
「ん?、難しく言うと、『時空量子力学における平行次元存在の耐えられない証明』なんだが、リョウタにもわかりやすく言うと、『アインシュタインをぶっとばせ!人生楽ばっかりのほうがいいに決まってるからその道を選んじゃうのさ理論』てとこかな」
どっちもばかばかしいとリョウタは思った。
「つまりだな・・・」
先刻、外した大小五つのリングを、父はテーブルの上にじゃらじゃらと置いた。
「これを取り付けた人間の人生が、ほぼ思い通りにいく、ってことさ。名付けて『おいらの人生ほぼ思い通りなのさ』リング」
リョウタは、得意そうな父の表情を、驚きと尊敬と軽蔑の眼差しで見つめた。
「人は、生まれ落ちてからその生命を終えるまで、到底数えきれないほどの岐路に立たされる。就職か進学か、あの子かこの子か、牛丼か天丼か。それこそ人生を左右するものから、昼メシのおかずまで。そういった岐路に立たされる度に、人はもう一人の自分を作り出す。
選ばなかった道を歩む自分だ。
そのもう一人の自分は、さらに次の岐路に立たされて、また違う自分を生産していく。まるで枝別れしていくように、幾通りもの自分の人生があることになるのだ」
父はソファから立ち上がって、おもむろに研究室の中央へ歩きだした。
もはや親子の会話ではなかった。にわか学会となってしまった研究室で、リョウタはできる限り相槌を打ち続けた。
「今日、お前が出くわした岐路、焼そばパンとツナサンド。今のお前はツナサンドを選んだお前だが、焼そばパンを選んだお前も、どこかの世界にちゃんと存在しているのだ。これを平行世界、パラレルワールドという。人が岐路に立たされる度に、そのパラレルワールドは枝を増やしていく。途轍もない数の枝だ。その平行世界を、私は自由にのぞけるようになったのだ。どうだ、すごいだろう」
うなずくしかないじゃないか。
「どうせ人間一度は死ぬ。ならば、おもしろおかしく生きてみたいとは思わないか。そこで、そのリングだが、装着した人物の思考波を読み取り、ここへ転送するようになっている。今日のお前だな。そして、お前が岐路に立たされ選択を迫られたとき、お前の社会的立場や価値観などの個人データを加味して、最適と思われるパラレルワールドを検索して、その結果、何を選択すればよいかをリングに運動情報として伝える。焼そばパンを取ろうとしたお前が、知らずにツナサンドを取ったのも、そのリングのせいだったのだ。
だからこそ、キョウコちゃんと仲良くなる方向へ、お前の人生が進んだのだ。先刻、ほぼ思い通りにいくと言ったのは、人の価値観というものは変わりやすいからで、決して研究に自信がないからではないことを付け加えておこう。せっかくの選択も、お前がキョウコちゃんを嫌いになってしまえば意味がないからな」
真面目な事を言うときだけ、父の訛はすっかり消えている。久しぶりに見たかっこいい父親を、リョウタは少し見直した。
「さあ、晩メシの支度でもするか。今日は、父さんの番だったな」
「か、買い物は僕が行くよ、父さん」
「ん、そうか。じゃ頼む」
リョウタは、弾むように歩きだした。放っておけばスキップでもしそうなくらいに。
「あ、リョウタ、リングを付けていきなさい。例え些細でも、幸せなら手を叩こうだ」
訳のわからない科白も今日は大目に見ようと、リョウタはリングを手に取りながら思った。
これからは、父の言うとおり“ほぼ”思い通りの人生が過ごせる、そう思うとリョウタは何もかも許したくなった。あの時、キョウコの想いにシカトした自分をもう一度やり直せるかも知れないのだ。もう迷うことはない。歌の文句みたいだけど。
今日はスキヤキにしよう。リョウタは悩むことなくそう思った。しかし、買い物かごをぶらさげて家を出たときに、もうリョウタは岐路に立っていた。近いスーパーへ行くか、少し遠いが安い商店街まで行くか。家の前の通りを、右ならスーパー、左なら商店街。
・・・待てよ、今日は木曜日、ってことは商店街は定休日、ってことは右だな・・・
歩きだしたリョウタは、自分が左の道を行っていることに、角を曲がるまで気がつかなかった。
・・・あれ?、おい、こっちじゃないぞ・・・
立ち止ることは出来るが、決して回れ右をすることは出来なかった。引き返そうとして踵を返すと、くるっとそのまま身体が一回転して元に戻った。踊ってる場合じゃない。
・・・なんてこった、閉まってる商店街で何を買うんだよっ・・・
しかし、これはリングの仕業、きっと何かあるに違いない。スーパーに爆弾が仕掛けられてるとか、商店街が実は大特価セールをやってるとか、あるいは・・・。
妙に納得して、リョウタは商店街への道のりを歩きだした。
程なく歩いていると、角を曲がってやってくる見覚えのある制服姿、うつ向き加減で顔はよく見えないが、それがどうした、半拍ずれたリョウタの心臓はそれがキョウコであることを物語っている。
やがて向こうも気付いて、少しだけはにかんだように微笑んだ後、鞄を後手に持ち替えてゆっくりと二人の距離が縮まってくる。リョウタは、買い物かごを持っていてちょっとばかりかっこわるいが、そんなことは気にしちゃいない。このリングがある限り、ほぼリョウタの思い通りコトは運ぶのだ。
「・・・買い物?」
「そ、そうなんだ」
「商店街まで、行くの?」
「そう」
「休みよ、今日。商店街」
「え!?、そうだっけ?」
我ながらくさい芝居。
「あ、そうか」
恐る恐る踵を返してみた。もうくるっと回ることなく、身体は回れ右をしてくれた。
「・・・い、今帰り?」
「うん」
「クラブじゃないよね、テスト前だし」
「うん・・・」
「あ、今日は、ありがとう。お金返さないとね、ジュース代」
「ううん、いい。いいよ」
「そう?・・・」
二人少し離れて並んで歩きながら、リョウタはポケットに突っ込んだ手をゆっくりと出した。肘が少しキョウコに当たった。
「・・・来週だね、テスト」
「勉強してる?、リョウタくん」
「ま、まあまあってとこかな。キョウコちゃんは?」
「・・・あたしも、まあまあってとこかな」
お互いにファーストネームで呼び合うなんて、気持ちが盛り上がっていくのがリョウタにはわかった。
「じゃ、勉強がんばってね」
地球上から人類がいなくなると、時間という概念は意味をもたなくなると、昔父が言ってた。時間よ止まれ、とリョウタは思った。
「うん、キョウコちゃんも」
「・・・うん。またね」
キョウコは、ドアの向こうに消えていった。やっぱり、無理だった。物理的科学的現実的に不可能なこと、あるいは漠然とした希望など、そういう選択肢を伴わないものについては、この装置は働かないようだ。ただ単に“こうなれ”と思ってもだめみたいだ。
そりゃそうだ、そんなものが出来れば、人類の未来はどうなることやら。
一度だけ後ろを振り返って、リョウタはスーパーへと急いだ。夕刊を配達するオートバイが、ぐったんぐったんとリョウタを追い抜いていった。
鍋物もスキヤキも、大勢で食べたほうがうまいに決まってる。よく聞く話だが、リョウタにはなぜそうなのかわからない。リョウタは、三人以上で食卓を囲んだことがなかった。母がいたころも、父は大学か、家の半殺しの研究室にいて、いつも椅子が一つ空いていた。
さみしいと思ったことはなかった。というより、さみしいということがどういうことかわからなかったのだ。母が出ていったあと、さすがに父も責任を感じたのか、食卓に戻ってきてくれた。しかし、食卓の定員が100%になることはなかった。
牛肉、脂身が少し多いくらいがほんとうは赤身よりおいしい。ネギ、嫌いだけどしょうがない。焼き豆腐、糸こんにゃく、もやし、たまねぎ、えのき茸、それに、卵。我が家のスキヤキに入る食材だ。
きっちり二人分の材料を買って、レジへ向かった。折しも夕食の買い物ラッシュ、六つあるレジは、どこもおばちゃんでいっぱいだ。どこに並べば一番早く払いを済ませられるか。
足は、左へ左へと向いた。リョウタは、一番左のレジに並んだ。そこは出入口に近く、最もたくさんおばちゃんが並んでいるレジだったが、リョウタはリングを信じた。先刻もそうだ。閉まっている商店街のほうへ足を運んで、結局キョウコに会えたのだから。
しかし、幾ら待っても列のおばちゃんは減りゃしない。どうやらレジ打ちのまだ若い女性が研修中らしく、処理スピードが他に比べて格段に遅いのだ。おばちゃんからブーイングも出ている。リョウタは列を替えようとしたが、やはり足はびくとも動かない。ついでにリョウタの前に並んでいるおばちゃん、よく見ると買い物かごを三つも持っているではないか。
レジの処理スピードは、並んでいる人数だけでは決して決まらない。抱えている品物の数も考慮しないとだめなのだ。
リョウタが大きな溜息をついたその時、スーパーの自動ドアが開いて、一際まばゆい光を放ちながら一人の女性が入ってきた。
キョウコだった。
私服だったので、すぐにはわからなかったが、おばちゃんずくめの店内において、キョウコはまるでジャンヌ・ダルクのようだった。よくわからないがそういうことだ。
「あ・・・」
聞こえはしなかったが、口唇がそう言っていた。はにかみながらキョウコが近づいてきた。
「・・・キョウコちゃんも、買い物?」
「うん、家にお客さんが来てて、お母さんが手が離せないから代わりに行ってきてって」
「そう・・・」
「リョウタくん、並んでたんでしょ?」
リョウタは思わず、列を離れていた。キョウコが指差した列を振り返ると、もうすでにリョウタの帰る場所はなくなっていた。弱肉強食の世界がここにもあった。
「・・・ま、いいや。・・・肉が安いんだ、行こうよキョウコちゃん」
「う、うん・・・」
まさに至福の時間だった。この歳で女の子と二人きりでこんな所帯じみたことをしているなんて。仲よく遊んでいたころの、あのころの笑顔が二人に戻っていた。
お互いに買い物袋の持ち手を片方ずつ握りながら、リョウタとキョウコは黄昏色に染まった街を歩いていた。
「・・・あのさ、キョウコちゃん」
「なあに?」
そこまで言いかけて、リョウタの口は急に重くなった。これは“言うな”ということなのか。
「い、いや、なんでもない」
「なあに、気になるわ。言って」
言うのか、リョウタ。
「あのね・・・」
知らないぞ。
「・・・あ、明日さ、晩ごはん食べに来ない?」
なんじゃそりゃ。
「・・・だめかな?・・・」
キョウコは、しばらくうつ向いていたが、やがて微笑んで顔を上げると、暮れていく空を見つめた。
「・・・数学ね、・・・わからないとこがあるの。教えてくれる?」
「・・・僕も苦手だけど、父さんならばっちり教えてくれるさ」
キョウコは、笑ってうなずいた。
「買い物一緒に行こうね」
お互いの家の前で、もう一度明日の約束を確認して、二人はそれぞれの家に入った。
「ただいまーっ」
意気衝天の勢いで帰ってきたリョウタを出迎えたのは、三つ指をつかんばかりに土下座している父だった。
「どうしたの?、父さん」
「す、すまん、リョウタ」
床にぴったりと、めりこむんじゃないかと思うくらい頭をつけて、父はひたすらに謝った。
「どうしたのさ、一体」
「・・・実は、お前が買い物に出ていったあとで、『おいらの人生ほぼ思い通りなのさ』リングに情報を送るコンピュータが・・・」
「こ、故障したの!?」
父は、うなだれるように首を縦に振った。
「そ、それじゃ、今までのは・・・」
「そのリングは、ただのアクセサリーになってたのだ・・・。すまん」
「で、でも、足はちゃんと・・・」
そう言ってリョウタが足を動かそうとしたとき、激痛が走った。どうやら体育の時間に痛めていたらしい。痛みで思い通りに動かないのを、逆にてっきり装置の仕業と思い込んでいたのだった。
「そ、そんな・・・」
リョウタは、急に身体の力が抜けて、玄関先にへたりこんでしまった。
「・・・やはり、私の研究は、まだまだのようだ」
父は、ゆらゆらと立ち上がり、廊下を力なく歩き出した。
「父さん、あの装置がなくても、僕は思い通りにいったよ。機械の力がなくても、そんなものいらないよ。自分の人生くらい、自分で決めるさ」
父は振り向きもせず、居間へ入っていった。リョウタは、買い物の袋を持って、台所へ向かった。
「・・・父さん、・・・キョウコちゃんが、明日数学教えて欲しいって」
食器棚の向こうの父は、座ったまま身じろぎもしなかった。
「晩ごはん一緒に食べるんだ。三人で食べようよ」
「・・・リョウタ、・・・父さん、大学へ戻るよ・・・」
ネギを切ろうとしていたリョウタの手が宙で止まった。
「いや、戻れるかどうかわからないが、出来るだけのことはやってみる。もしだめなら・・・、キョウコちゃんの家庭教師でもしよう・・・」
「父さん・・・」
包丁を持った、リョウタの右手のリングが光った。
「・・・もう、いらないや、こんなもん」
生ごみのバケツに、大小のリングが五つ。
「おなか空いたな、リョウタ」
「座ってないで、ガスコンロ出しといてよ、テーブルの上に」
半殺しの研究室、青白く照らされた研究室。
『時空量子力学における平行次元存在の耐えられない証明』、あるいは『アインシュタインをぶっとばせ!人生楽ばっかりのほうがいいに決まってるからその道を選んじゃうのさ理論』に基づいて設計された『おいらの人生ほぼ思い通りなのさ』リングは、その機能を停止した。
しかしそれは、システムの故障によるものではなく、リョウタの選択の結果そうなったことを最後に付け加えておこう。
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