1994

青い月

 砂埃が足下で舞い上がっている。
 手で振り払おうとしたが、適度に遮光されたグラスシェイド越しに見えるそれは、緩い放物線を描いて、膝上を越えることなくまた地に戻った。
 今まで見たどこの砂浜よりも細かい砂のはずなのに、ここの砂埃は舞うことを知らない。
 どこまでも続く白い大地に、漆黒の空が広がるモノクロームの世界。色の付いているものと言えば、グラスシェイドに写る様々な表示と、月面走行車の鼻先に垂れ下がっている社旗ぐらいだろう。
「シンジョウさん、少し手伝ってくれませんか」
 乾いた雑音混じりの声が耳元で響いて、新庄祐也は我に返ったかのようにぴくりと身体を動かした。
「向こうに回って」
 路肩に退けられた月面車の脇で、リチャード・アトウッドはギプスのようなマニピュレータを付けて作業していた。
 彼の足下は、まるで掘ったように地面がえぐれて、彼が身体を動かす度に力なく舞い上がる砂を、祐也は今まで呆然と見つめていた。彼の不格好に延長された腕が、車の反対側を差した。
 オープンホイール型の月面車は、第一次アポロ計画時代のものとよく似ていた。あれほど華奢ではないが、こう故障が続けば、次の車検でオーヴァーホールに回されるのは間違いないだろう。
「済まないね、まさかこんなところで故障するとは」
 彼に背を向けて跳ねるように歩きながら、祐也はちゃんと声が後ろから聞こえているのに気がついた。以前に比べて幾分スマートにはなったが、タイヤメーカーのマスコットみたいな宇宙服の印象は、まだまだ拭えそうにない。
 黒い舗装路を、潰れたように平たいクローズドボディの月面車が走っていった。ここで生まれて育つと、美的感覚が損なわれる気がして、祐也は嫌だった。

 大きなドアがはね上がって、岸川佳央里はタクシーを降りた。
 サックスブルーのコートを丸めて抱えた、オフホワイトのツイードのスーツの佳央里を出迎えたのは、妙に背の高いドアマンと、妙にオリエンタルな装いの秋本陽子だった。
「さ、急いで急いで」
 二人は、早足でシティホテルのエントランスを抜けていった。
「陽子、ちょっと派手過ぎない?、同窓会でしょ?」
「だからじゃないの。これでも抑えたくらいよ」
 ロビーを小走りに抜けて、地下へ向かうエスカレーターの手すりに掴まって、二人は弾む息を整えた。
「・・・久しぶりなのにね」
「六年ぶり、くらい?」
「そんな気しないわね」
「お互い変わってないって証拠」
「別の意味で変わってるけどね」
「言うわね、相変わらず」
 陽子は、大きなデコレーションのイヤリングを揺らして微笑んだ。
 彼女の、日本の着物とインド辺りの民族衣装をミックスした”アジア代表”みたいな衣装を、佳央里はエスカレーターを降りる間まじまじと見つめていた。
「じゃあ、陽子はちゃんと服飾デザイナーになれたんだ」
「まあね」
 地下のロビーには、もうかなりの人が溢れていた。内輪で集まる同窓会ではなく、ちゃんと学校側が主催して、クラス別に恩師も同席の上で行なわれるものだった。
「ね、新庄君は?」
「来てないの?」
「来てないのって、一緒じゃないの?」
 寂しそうに微笑むだけで、陽子には判るだろうと佳央里は思った。
 室長と副室長が座る3-Eクラスの受付を済ませて、佳央里と陽子は”白鷺の間”に入った。
 どこか懐かしい気持ちが、佳央里の中に込み上げてきた。もちろん、クラスメイトの少し成長した姿を見たのもそうだが、この”白鷺の間”が、教室と同じくらいの広さに感じられたのだった。
 別段形式張ったところもなく、立食スタイルでパーティーは進み、それぞれが昔の思い出に浸りながら談笑していた。
 中央に、所狭しとオードブルが並べられた大きなテーブルがあり、グラスとナプキンを受け取った佳央里と陽子を、着物やパーティドレスで着飾った一団が手招きした。
「佳央里ぃ、久しぶりね」
「元気そうじゃない」
「ちょっと肥った?」
 しばらくの間、佳央里の答えは言葉にならなかった。隣で陽子は、既に一杯目のビールを飲み干そうとしていた。佳央里もグラス半分ほどで、ようやく落ち着いてきた。
「みんなも元気そうみたいね」
 話が弾みだすまで、そう時間はかからなかった。女子二十二人のうち、半分が結婚していたのに陽子はひどく驚いていたが、佳央里は話に合わせるかのようにそれなりに驚いていた。表情も仕草も全然変わっていないが、みんな確実に大人になっているのを、佳央里は感じていた。
「やっぱり来てないね、新庄君」
 陽子が、背伸びして部屋を見渡すようにした。男子連中は、ほとんどが部屋の後ろの飲み物が並んでいるテーブルの近くに陣取って、時折大きな笑い声を響かせながら談笑していた。
「訊いてみようか、田島君なら知ってるかも。幼なじみだし」
「いいよ、陽子」
 佳央里が延ばした腕をかいくぐって、陽子は後ろのテーブルに向かった。
「え?、新庄?」
 田島信弘は、陽子の質問に答える前に、佳央里のほうを見遣った。
「あいつ、来ないよ。たぶん」
 田島は、すっと伸びた背筋がダークブルーのスーツをすっかり着こなして、陽子は、こいつってこんなだったっけと思いながら、続きを訊いた。
「岸川のほうが知ってるんじゃないのか?」
 グラスを胸の辺りで抱くようにしてこちらを見ている佳央里を、陽子は田島のところまで引っ張ってきた。
「ち、ちょっと」
「ね、佳央里、ほんとに知らないの?」
 佳央里は静かに首を振った。
「やっぱり・・・そうか」
 田島が、意味深長な呟きを洩らした。
「やっぱりって?」
「・・・そうなのか、岸川」
 具体的な言葉なしに交わされる田島と佳央里の会話に、陽子は苛立っていた。
「何がやっぱりでそうなのよ」
「鈍いな、秋本。判るだろ?」
 田島に詰め寄った陽子は、そう言われて佳央里を見た。
「・・・やっぱり、・・・そうなの」
 佳央里は伏し目がちにそう呟くと、踵を返して談笑の輪の中に戻って行った。

 アトウッドが操縦する月面車は、舗装路から外れたなだらかな砂丘を疾走していた。
 アクティブサスペンションは、車の姿勢を完璧にコントロールし、ムースタイヤは、例え乗り上げた岩が尖っていても、柔らかく包み込んでは押し出していく。ハーネスに締められた腰が、その度にゆっくりシートに叩き付けられる。
「だいぶ、遅れをとってしまったようだ」
 アトウッドは、自分を戒めるように呟いた。
「この辺りは、もう静かの海ですか?」
「ああ、テオフィルスクレーター沿いに、北上している。あれがクレーターの縁だよ」
 アトウッドが、操縦桿から手を離して指した方向には、祐也が今まで山脈と思っていた大きな岩山がずっと続いていた。
「もうすぐ、14号道路と合流出来るから、そうしたら、基地まで十分くらいで着くだろう」
 祐也の目の前にあるパネルに付近の地図が映しだされ、赤い光の点が、クレーターの脇を点滅しながら少しずつ動いていた。
「アトウッドさん、アポロ11号が着陸した場所って、ここからは遠いんですか?」
「ん、遠くはないが、もう何も残っていないと思うよ。みんなミュージアム行きになったからね」
 祐也は、パネルの地図を操作しようとしたが、車の状態を示す表示に切り替えた。現在位置や、高度、バッテリーの電圧などが、ちまちまと数字を変えながらちらついていた。
「・・・もう、この車も古くなったことだし、またいつ故障するか判らないから、定時に到着するのは、無理かな」
 アトウッドは、そう言うとこちらに頭を向けた。グラスシェイドで顔は見えなかったが、祐也は彼が笑っているような気がした。
 彼は、祐也に親指を立てるとアクセルペダルを踏み付け、14号道路を横切って行った。

「別れたっていうことなの?」
 陽子の質問に、田島は面倒臭そうな顔をして頷いた。
「あんなに仲よかったのに・・・」
「・・・飲むか?」
 田島は、陽子が差し出したグラスに、後ろのテーブルから持ってきたビールをついだ。
「ありがと」
 田島が空になった瓶を置いて戻ってきたときには、陽子のグラスもほとんど空になっていた。
「おいおい、二次会までとっとけよ」
 陽子は、力なく笑うとかぶりを振った。
「・・・あいつ、今、月にいるんだ」
「月って、月?」
 上を指差した陽子を見て、田島は頷いた。
「・・・別れた原因も、それなんじゃないかな」
 陽子は続きを訊こうとしたが、室長と副室長が受付を終えたらしく、部屋の入り口の扉が閉められて、ホテルのサーヴィスが慌ただしく動き始めた。内の一人が、生徒に囲まれて話をしている担任の高木先生に何かを渡した。高木先生は二三度頷くと、部屋の隅に置かれていたお立ち台の上に立った。
「えー、みんなちょっと注目」
 変わったところと言えば、少し額が広くなったことと、腰の辺りが弛んできたことくらいで、快活な声や笑うと左だけに出来る、あまりかわいくないえくぼは、間違いなくブー先生だった。
 粟田東高校三年E組のみんなは、どこかくすくす笑いながらも、お立ち台に立ったブー先生を注目した。
「受付もそろそろ終わったみたいなんで、ここで出席を取ります。いいですか、みんな元気に返事するように」
 出席を取るという形をとって、ブー先生は生徒一人一人の近況を訊いていった。みんなはもうかなり酒も入っていて、出席は盛況のうちに全て取り終わった。
「みんなちゃんと元気でやっているな。元担任としては、非常に光栄です。これからも頑張って下さい」
 沸き起こった拍手を制するように右手を広げると、ブー先生は話を続けた。
「みんなは気付いてるかも知れませんが、今日一人だけ、新庄祐也が欠席しています。彼は、今、この地球上にはいません」
 場内が、少しざわめいた。ブー先生は、してやったりというような笑みを浮かべた。
「といっても、別にあの世へ行ったわけでなし、ちゃんと生きています。新庄は月にいます。夜空に浮かぶ月です。彼も、みんなと同じように、自分の夢を叶えて月にいます。さ、最後は乾杯で締めましょう。みんなグラスを持って」
 佳央里の横に、赤くなった顔の陽子が、グラスを持ってやってきた。
「あとで説明してもらうわよ」
 陽子は、佳央里の脇腹を肘で突いて、にやついた顔で佳央里のグラスにビールをついだ。
「・・・黙っててごめんね」
「いいから、乾杯よ」
 ブー先生が、サーヴィスからグラスを受け取った。
「それでは、粟田東高校三年E組の未来と、ウサギになった新庄に、乾杯!」
 四十五マイナス一の元生徒達は、グラスを頭上に高々と掲げた。

 変わらない景色が続いている。大地の白と、空の黒。アトウッドは黙々と車を走らせていた。
 地面の凹凸を吸収して上下する前輪を、祐也は呆然と見つめていた。いくら自由勤務時間とは言え、少し後ろめたい気持ちがないわけではなかった。
 大学時代に、アストロノーツアカデミーでスペースパスを既に取得していたおかげで、祐也は当時新入社員ながらにして光崎重工の宇宙開発部に抜擢された。今は、MDA(月開発局)職員のリチャード・アトウッドと共に、月基地間を連絡するムーンシャトルの発着場建設用地視察のために、こうして月面車を走らせていた。
「シンジョウさん」
 二度目の呼び掛けで、祐也は振り向いた。
「私はね、もう人生の半分くらいはこっちで暮らしてるんだけど、11号の着陸跡はまだ行ったことがなくてね。一度見てみたかったんだ」
「そう言って頂けると・・・。これでやっと月に来たって気がしますよ」
 アトウッドは短く笑うと、「あまり期待しないほうがいいよ」と掌を上に向けて肩をすくめた。
「シンジョウさん、結婚は?」
「いいえ」
「じゃガールフレンドは?」
「・・・いません」
「ノーマルだよね?」
 祐也は思わず日本語で「もちろんですよ」と答えた。アトウッドは思いっ切り笑い飛ばしていた。
「すまない、気にしないでくれよ。いやね、もし君にガールフレンドがいたなら、一度でいいからここに連れて来たほうがいいと思ってね」
「何故です?」
 アトウッドは短く唸った後、カウントでも取るように胸の辺りを軽く叩きながら、しばらくして答えた。
「ん、そのほうが、より君のことを分かってもらえるから、とでも言っておくかな」
 どこか伏せたような言い方に、祐也は少し眉をひそめた。
 それにしても、リラックスした話をしているにも拘わらず、アトウッドは操縦桿を左右に小刻みに振り、微妙なスロットルワークで、無数の岩が転がる月の砂丘を乗り越えていく。まるでラリードライバーのようだと祐也は思った。
「もうすぐだな」
 パネルの赤い点は、AP-11と記されたポイントにかなり接近していた。祐也が地図のスケールレンジを切り替えると、あと500mほどだった。
「アトウッドさん、旗が、旗が見えますよ」
 祐也の弾むような声に、アトウッドはアクセルペダルを踏み付けた。

 サブ・シティの煌煌と照らされたパステルカラーの廊下に、約三人分の足音が響いていた。
「ねえ、今何時?」
 佳央里の問い掛けに、酔い潰れた陽子の肩に回している腕を捻って、田島は時計を見た。
「1時過ぎ」
 陽子は、二人に脇から抱えられて、糸の緩んだマリオネットのように辛うじて歩いていた。
「ごめんね、付き合わせちゃって」
「そっちこそ大丈夫か、あんまり強くないんだろ?」
「三次会は全然、飲んでないから、大丈夫」
 死んでいるように首をだらんとさせた陽子が、何かむにゃむにゃ言っている。
「しかし、こいつがこんなに”ざる”だったとはな」
「どこかで休みましょう」
 適当なエスカレーターでサブ・シティから地上に出ると、心地好い風が吹き抜けてきた。
「ちょっと寒いな」
「公園まで行きましょうよ。サブ・シティじゃ空気が悪いわ」
「地上も地下も同じだと思うけど」
 噴水のある公園のベンチに、佳央里と田島はひとまず厄介者を横たえた。
「田島君、明日平気なの?」
「じゃなかったらとっくに帰ってるさ」
 佳央里は微笑みで答えて、横になった陽子に自分のコートをかけた。
「あー、疲れた」
 噴水の淵に座って、田島は大きく伸びをした。
「ねえ、そこ冷たくないの?」
「よく見ろよ」
 佳央里は、ベンチで眠っている陽子を気にしながら、噴水の近くにやってきた。大きく水が噴き上がって四方に広がりながら、空中で渦を巻いたりまるでアクロバット飛行機のような、およそ物理的な法則を無視したような水の動きに首を傾げた。
「ホログラフさ」
 噴き上がる水飛沫も、波立っている水面も、全て作られた映像だった。佳央里は、水面を手ですくってみた。
「ちゃんと揺れるのね」
 佳央里が手を入れたところから、波紋が広がっていった。
「光崎重工が開発したんだ。知ってるだろ?」
 しばらく佳央里は、手の動きに合わせて揺れる水面を見つめていた。
「・・・祐也の、・・・新庄君の会社でしょ」
 優しい微笑みを浮かべながら、架空の水を弄んでいる佳央里を見て、田島はいい加減にしろとでも言うように大きな溜息をついた。
「・・・まさか、別れてたとは思ってもみなかったよ。様子が変だな、とはなんとなく分かってたけど、どうせいつもの喧嘩くらいにしか、あいつが自分から電話してくるときは、決まって君と喧嘩したときなんだ」
「幼稚園からずっと一緒だったんでしょ?」
「でも、一緒に過ごした時間はそっちのほうが多いさ。大学行ってた頃も、たまに飲みに出かけりゃ君の話。愚痴の聞き役ってところかな」
 急に、佳央里が弾けたように声をあげて笑った。
「それ、あたしも陽子にしてた」
 田島は、丸まって寝転がっている陽子の背中を一瞥すると、納得したように短く笑った。
「・・・大学卒業して、就職してもたまに飲みに行ったりしてたけど、去年の夏頃かな、いつもきっちり割り勘で払うあいつが、俺の懐を押さえて「今日はおごりだ」なんて言うから、何かあると思ってたら、「月に行く。いつ帰ってくるか分からない」ってエアレールのホームで言いやがって。そんときのあいつの眼、今まで見たことない眼してたよ」
 近寄ってきた自動販売機を追い払うと、田島は話を続けた。
「あいつ、宇宙飛行士になりたいって、幼稚園から言ってたからな。でも、あれは夢が叶ったって顔じゃなかった」
「あたしも、同じこと言われた。・・・でも、彼、それから笑わなくなったの。一緒に買い物行っても、ごはん食べても、全然笑わないの。どうしたの?って訊いても「別に」って言うばっかりで・・・、もうだめかなって、思って」
 佳央里は、田島に背を向けるように噴水の淵に腰掛けた。
「・・・なんだか、月より遠くに行っちゃった気がして・・・」
「・・・幼なじみの俺より、岸川のほうがあいつをよく分かってると思ってたけど」
「今でもそのつもりよ。他の誰よりも。でもね・・・」
 佳央里が泣いているのを、田島は気付かずにいようとしたが、無理だった。
「・・・祐也は、あたしのこと分かってくれなかった・・・、あたしは、ただずっと一緒にいたかっただけなのに・・・」
「なに調子いいこと言ってんのよ」
 投げ付けられたコートを受けとめながら、佳央里は目を丸くした。
「あんたこそ新庄君のこと分かってないじゃないの。分かってるふりしてただけよ」
 イヤリングを引きちぎるように外してベンチに叩き付けると、陽子は佳央里に詰め寄った。
「きゃあっ」
 ご丁寧に噴水は、佳央里が落ちた水飛沫まで映しだした。
「お、おい」
「頭冷やすのは佳央里のほうよ」
 田島は割って入る隙もなく、中腰の姿勢で呆気にとられていた。
「・・・そりゃ、宇宙での仕事が、まだまだ危険と隣り合わせだってのは知ってるし、ましてや月だもの、離れて暮らすのが辛いのもわかるわ。でもそこで『気を付けて、早く帰ってきてね』って言うのが恋人じゃないの?」
 佳央里は、波打つ光の水の中で、身じろぎ一つせずに陽子を見ていた。
「新庄君の夢は、あなたにとっても夢なのよ」
 田島が佳央里を抱え上げて、噴水の外に出した。
「・・・そういや、いつか奴が言ってたな。・・・青い月を見せてやりたいって」
 見上げた空には、細く欠けた月が浮かんでいた。

 星条旗は、凍り付いたように少し下がりぎみに、吹くはずのない風になびいているようだった。
 アトウッドが車を止めるや否や、祐也はハーネスを外して車から飛び降りた。
 偉大な先駆者が立てた、アメリカ合衆国国旗。アトウッドが、まるで動かないのを心配して肩を叩くまで、祐也はそれを見つめていた。
「シンジョウさん」
 アトウッドの白いグローブが、地面を指差した。無数の足跡があった。もちろん、”人類の偉大な一歩”はそこにはないが、我々のような見物人の足跡に紛れて、第一次アポロ計画当時の宇宙服の足跡があったのだ。
 祐也は、思わずしゃがみ込んでいた。それが、誰の何歩目かは判らないが、明らかに開拓者たる宇宙飛行士の足跡だった。
「・・・人類が、宇宙に抱いていた夢の跡さ。こうやって、夢も現実になってしまえば、たいしてどうということもない。百年前のおとぎ話が、今は現実となって目の前に存在している。・・・少し怖い気もするがね」
「・・・夢を叶えるって、もしかすると、得るものより失うものの方が多いのかも知れませんね」
「だからこそ夢なんだ。失うことを恐れていては、一歩も先へ進めない。叶えて後悔する夢などないさ」
 祐也は、ゆっくりと立ち上がった。
「・・・僕は、宇宙飛行士になりたかったんですけど、・・・今の僕は、宇宙飛行士じゃないですよね。ただの会社員ですよね・・・」
 アトウッドは、何も答えなかった。祐也から目を離し、地平線を遠く見つめていた。
「・・・月の地平線から昇る地球を見たことは?」
「いえ、・・・こっちへ来てから、あまり自由な時間がなくて」
 祐也も、アトウッドの見つめている地平線のほうを向いた。白く、なだらかな地平線だった。
「昇ってくるそれが、眩しく光る太陽でもなく、妖しく輝く月でもない。青く透き通った地球が昇ってくるんだ。我々が生まれた星、そして、我々の還るべき星。・・・一度でいいから、私の妻に見せておけばよかったよ・・・」
 ライフサプライの半減を示す警告灯が、グラスシェイド右隅にともった。
「戻りましょう。アトウッドさん」
 車をそのまま北上させて2号道路から8号道路に入ったほうが、迂回にはなるが舗装路を走れるので、二人はそのルートをとった。
「バッテリーは大丈夫かな」
「あと、・・・32時間、バックアップがまだあります」
 ジュリアスシーザーと名付けられたクレーターに建設中の発電所へ、資材を運んでいる車と度々擦れ違った。
「・・・がっかりしたかい?」
「え?、何がですか?」
「ここに来たことさ」
「・・・いいえ。がっかりするくらいなら、来ませんよ」
 アトウッドは頷いたが、宇宙服はその動きを外には伝えなかった。
「私は、少しがっかりしたな。もっとも、もう少し早く来てれば、そうでもなかっただろうがね」
 祐也には、よく意味が判らなかったが、それを問うことはしなかった。
「基地に帰ったら、連絡を取るんだ。たぶん今の君は・・・」
 そこまで言って、アトウッドは車を止めた。
「・・・月が昇るな・・・」
 祐也は、その言葉に振り向いた。
 半分欠けた青い地球が、地平線上に浮かんでいた。青い月が、白い地球に昇っていった。
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